「長崎大勝軒」
長崎市大黒町8-3
午前11時半~午後2時、同6時~同9時(日曜日は昼のみ)。
月曜定休(昼のみ営業の場合あり)
特製もりそば920円
ラーメンの一ジャンルとして確立された「つけ麺」。その生みの親は山岸一雄さん(1934~2015)である。東京の「東池袋大勝軒」を営み、多くの弟子を輩出した。「ラーメンの神様」とも称された山岸さんの〝最後の弟子〟が長崎市にいる。
その店の名は「長崎大勝軒」。入って正面の壁に1枚の写真が飾られていた。山岸さんの隣に、やや緊張気味の大将、畑原勇さん(61)が写る。「修業時に撮ってもらったものです」と畑原さんは言う。
2006年秋に修業を始めた。当時40代半ばで、しかも飲食業は初めてだった。一回りも二回りも年下の同僚たちの中、がむしゃらに働く。「店で作り方を頭にたたき込む。下宿先に帰ってメモする毎日でした」。そんな生活を支えたのは山岸さんの言葉だった。
「自分のスタイルを持つこと。辛抱してやっていけば必ずできる」。
07年3月20日。修業の最終日は、山岸さんによる東池袋大勝軒の最後の日でもあった。高齢で体が限界に達していたところに再開発で立ち退きを迫られていた。最後の一杯を求めた長蛇の列は延々と続いた。「実はその日のスープを作ったのは私なんです。山岸さんの下で働けたことは今でも誇りです」
畑原さんは、炭鉱で栄えた池島(長崎市)で育った。炭鉱で働いた父親と同じく、地の底に潜り、閉山がささやかれ出すと島を離れた。その後、長崎市で会社勤めをしたが「商売をやりたい」との思いがわき起こる。そんなときに出合ったのが大勝軒の一杯だった。
山岸さんは17歳の時に親戚に誘われ、ラーメンの道に入った。中華そばで人気の「大勝軒」で働き、中野の店を任された頃、つけ麺のルーツとなる「特製もりそば」をメニュー化する。実はこの料理、もともと賄い飯だった。食糧難の時代、ざるに残った麺を器に集め、つけ汁に浸して食べていたのを常連が見て「食べたい」と言い出したのが始まりだという。
畑原さんは東池袋大勝軒が店を閉じた年の夏に長崎大勝軒を構えた。看板メニューはもちろん直伝の「特製もりそば」だ。豚骨、鶏がらベースのつけ汁は魚介系のだし、そして酢の酸味が重なる。太麺はグニュッと引きがあり、食べ始めたら止まらない。浸す、すする、を繰り返す。気付くと完食していた。
これぞ山岸さんの味と思いきや「違います」と畑原さん。最初はとにかく師匠をまねたが、5年ほどたった頃から考えを変えた。骨を長時間炊き、スープを濁らせた。しょうゆを多くして麺は太くした。さらに「ぶたもりそば」を考案。つけ汁に豚肉とショウガを加えた一杯は今や1番人気となっている。
「師匠は義理堅い方でした」と振り返る畑原勇さん
「九州の人に合わせた自分なりの味を確立できた。ようやくやっていける自信が持てたところです」
山岸さんは多くの弟子を受け入れ、惜しげもなく自分の味を伝えた。雑誌でレシピを公開したこともある。一方、自伝でこうも書き残した。
〈どんなにホンモノをまねても、ニセモノはホンモノにはならない。ホンモノはつくり出すものである〉
最後の弟子は、ホンモノに近づきつつあるのかもしれない。
文・写真小川祥平
1977年生まれ。ラーメン記者、編集者。
著書に「ラーメン記者、九州をすする!」。「CROSS FM URBAN DUSK」内で月1回ラーメンと音楽を語っている。ツイッターは@figment2K