父が死んだ。86歳だった。86といえば、男なら長寿であるが、実際は77歳で死んでいた。77の時、全身に黄疸が出て、15時間の大手術となった。胆嚢をとり、胃袋の一部、肝臓の一部、すい臓の一部と切除した。命は助かったが、それからは元気がなく廃人のようであった。
父は大正四年生まれ、産褥(さんじょく)ですぐに母を亡くし、5歳で父を亡くした。それからは親戚をたらい回しで同じ食卓にはつけず、別のお膳で食事をさせられた。尋常小学校に入学の時、伯母が道で拾ってきた汚れた学生帽を被せられた。その屈辱をいつも悔しがっていた。私が小学校入学で、帽子屋に学生帽を買いに行った時、その話を聞かせてくれた。
18歳で農業高校を出ると、北九州の部品製作所に就職した。そこのお嬢さんと恋仲になったが、家柄身分が違うと反対され、お嬢さんは門司港に身を投げた。父は19歳で徴兵検査を受け、20歳で熊本第六師団野砲第六連隊に入隊した。お嬢さんは女優の高峰三枝子に似ていたらしく、父は生涯、高峰の映画を観ることが好きだった。
22歳上等兵の時、中支派遣軍隷下として南京攻略に杭州湾から上陸し、南京城を攻めている。大学時代、父と激論になったことがある。「なぜ中国を攻めたんだ、侵略だ」「そんな国の方針なんてことは、上等兵くらいではなにも分からん。職業軍人でもない、兵隊はただ上の命令に従うだけだ」「南京大虐殺、なんでこんなに殺したんだ」「南京城の中のことは分からん、野砲兵は城外で野営し、味方を守っているだけだ」。
父は貧乏育ちにしては、胸囲が1m以上あり、筋肉質で砲兵にさせられた。もちろん甲種合格である。「熊吼える野砲兵」と言われたように兵隊の中でもプライドが高かった。南京の後は武漢を落とし、三鎮、武昌、武寧、長沙と転戦し軍曹で除隊した。満鉄(旧・南満州鉄道)の子会社華北交通に就職し、母とは写真結婚で内地の故郷でささやかな式を挙げた。新婚時代は北京である。姉を授かり、すぐに敗戦。引き揚げに一年を要している。つまりシラミだらけの集結所暮らし、難民生活である。やっと天津のタークー港から、現在の山口県長門市の仙崎港に引き揚げる。食べて行かなくてはならず、田舎町の駅前で飲み屋を始めた。私の一つ上の兄は心臓弁膜症で小学校入学前に死んだ。当時まだ田舎に焼き場はなく、浜で隣保班の方と小さな体を荼毘に付した。妹は生まれてすぐに黄疸が出て、真っ黄色になって一週間で死んだ。弟も生まれてすぐに死んだ。赤い飴細工のような細い体だった。それからも母は何度か妊娠したが、すべて流産で子は授からなかった。母は「うちには子がのさらん(授からん)…」と嗚咽していた。
父はいまわの際に、「生まれてきて…一度も、愉しい…と思ったことは、なかった」と苦しい息の中で言った。「カーテンの向こうに中国兵がいる」とおびえた。可哀そうな一生だった。荼毘に付した後、深夜、私は父の遺骨を一つ取り出し、口中に入れて嚥下した。「ごめんね、愉しくない人生で、俺、がんばるよ」と父の写真を見つめながら、父の一生を偲んで泣いた。
中洲次郎=文
text:Jiro Nakasu
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)
新刊『団塊ボーイの東京』(矢野寛治・弦書房)
◎「西日本新聞TNC文化サークル」にて。
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※詳しくは ☎092・721・3200 まで
やましたやすよし=イラスト
Illustration:Yasuyoshi Yamashita