仕事が面白くて、家のことは女房に任せて顧みなかった。毎晩、12時くらいまで仕事をし、それから若手を連れて飲みに行った。深夜に飲んで食べられる店は屋台しかなかった。ありがたいことに屋台は明け方4時まで営業していた。
この日、若手のA君と、上司の制作部長と飲みに行った。競合プレゼンの勝ち負けの話で盛り上がり、上司は「勝ち負けは仕方がない。いい案だから勝てるわけでもないし、出来がフツーでも勝てることがある。相手のあることですから…」と言った。
一度、3年間守ってきた大アカウントを落としたことがあった。競合社に負けたのだ。「今年のボーナスをなしにして、位も下げてほしい」と伝えると「競合プレゼンの勝った負けたでそんなことはできません」と言う。「そんなことしていたらプレゼンの度にみんな上がったり下がったり、人事部もそんなことは認めない」とほほ笑んだ。
上司はいつも部下全員の仕事が終わるまで、机に待機し終わると飯に誘った。泰然自若とした、春風のような人だった。酔いも回り突然、彼がこう切り出してきた。「ところで、A型とO型の子に、B型は生まれるだろうか」
私は「血液型は詳しくありませんが、生まれないと習っています、なっ」とA君にも尋ねてみた。「ええ、生まれないと思います」とA君が答えた。上司が中空を見て「うちの子の話なんだ」とつぶやいた。私とA君は顔を見合わせ、ここをどう繕うかと気まずい間ができた。
「調べ間違いではないでしょうか」「よーく調べたよ、何度も」「では、このごろよくある病院の取り違え、とかではないでしょうか」「それも、何度も足を運んでよーく調べたよ」。
また沈黙が続いた。「お子さんは、どちらですか」「男の子だ。ことし高校受験なんだ。頑張ってる」。また間が続いた。やおら、上司は声のトーンを柔らかくして「でも、可愛んだよなぁ、この子が…」と言った。奥様のことは一切、口を突いて出なかった。
「いや、つまらん質問をしてしまった。ごめん、ごめん、飲み直そう」と上司は吹っ切れた明るい表情で新しい酒を頼んだ。私とA君はそのことに引っ掛かりながらも、もちろん、その話題はせず、クリエイティブ論やこの頃のコピー論に花を咲かせた。上司を車に乗せ、私とA君はもう一軒バーへと足を運んだ。私は奥様を知っていた。間違いを起こすような奥様ではなかった。
怪訝な気持ちで、私はマティーニを飲み、A君はマルガリータを飲んだ。「大きい男、だなぁ」と言うと、A君も「大きい人ですね」と相槌を打った。
「ついていくか」
「ついていきましょう」
もう明け方の4時だった。
中洲次郎=文
text:Jiro Nakasu
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)
新刊『団塊ボーイの東京』(矢野寛治・弦書房)
◎「西日本新聞TNC文化サークル」にて。
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やましたやすよし=イラスト
Illustration:Yasuyoshi Yamashita