神風が元軍を追いやったという伝承は、『八幡愚童訓』という八幡神の霊験などを記した書の「夜中に筥崎の神々が出現して、蒙古兵を痛めつけた」という記述、つまり神話が変化して伝わったものだと言えます。
鎌倉幕府を助けた、飛鳥時代築城の水城
10月24日の大宰府での合戦で日本軍が勝利しますが、勝敗を分ける鍵となったのが飛鳥時代に天智天皇が唐・新羅に対する防衛として築いた水城です。大城(おおき)山麓から下大利まで全長約1.2キロメートル、幅80メートル、高さ13メートルの堤防で、当時は外敵が攻めてこなかったため役立つことはありませんでしたが、約700年の時を超えて蒙古襲来の際に力を発揮します。幕府軍は高さがある水城の上から攻撃することで弓矢や投石の威力が増し、反対に水城下にいた元軍の攻撃は威力をそがれ、幕府の勝利となりました。
■大宰府の戦いで負けていたら…?
文永の役が起こったのは旧暦10月の冬。季節風の関係で海から武器や食料の補給することが困難な季節でした。もし重要な拠点である大宰府を攻め落としていれば、元軍は日本側の物資を奪い取り侵略を進められましたが、大宰府を手中に収めることができず、物資も少なくなっていたため元軍は撤退を余儀なくされました。
※政庁の場合は『大』宰府表記
水城土塁断面広場/写真提供:福岡県観光連盟
弘安の役では博多上陸はしていない!
文永の役から7年後、元は東路軍と江南軍を日本に送ります。最初に博多湾に到着した東路軍は、文永の役で苦戦したこと、海から博多方面を見ると海岸線沿いに石塀(防塁)が築かれていたことから、自軍だけで博多上陸をすることは危険と判断。援軍の江南軍の到着を志賀島で待つことにしたのでした。結局、江南軍は博多湾ではなく長崎の鷹島周辺に到着し、志賀島にいた東路軍が博多上陸することはありませんでした。
今津の防塁(左)と、長垂青木の防塁(右)。長垂青木の防塁の一部は巨木の切り株に抱かれ長い歴史を感じます。
写真提供/福岡市
志賀島沖の戦では元軍に〇〇を投げつける
刀や弓など正統派の武器で戦いをしていたイメージがある鎌倉武士たちですが、弘安の役のときに志賀島沖で戦をしたときは意外なものも元軍に投げつけています。『蒙古襲来絵詞』(27紙)には、船上の蒙古兵たちが異物を投げ入れられ鼻をつまみ、顔をしかめ、船上が混乱している様子が描かれています。鎌倉時代に手に入り、思わず鼻をつまむようなものは何か? おそらく、糞尿だったのではないかと推測されています。
鼻をつまむ2人の蒙古兵。糞尿攻撃だけでなく、武士たちは志賀島に駐屯する蒙古軍に度々、夜襲をかけるなどあらゆる方法で追い払おうとしていました。
※歴史的事実には諸説あります。
取材・監修
歴史学者・九州大学名誉教授
服部英雄さん
東京大学大学院修士課程修了。1994年より九州大学で教鞭をとる。日本中世史を専門とし、蒙古襲来や荘園、地名の研究を続ける。現在、九州大学名誉教授。近著に『しぐさ・表情 蒙古襲来絵詞復原 永青文庫白描本・彩色本から』(海鳥社)がある。