注目が集まっている鎌倉時代。当時の福岡でも蒙古襲来という大きな出来事が起こりました。2024年に迎える蒙古襲来750年を目前にした今、この歴史的出来事に迫ります。
大陸の覇者・元が日本に迫りくる
北条時宗が第8代執権となった13世紀後半、日本に大きな危機が迫ります。世界史上最も広い領土を誇った元(蒙古)が日本に接近してきたのです。元は6度も国交を求める国書を携えた使者を送りますが、鎌倉幕府はすべて無視。かたくなに元との交流を持とうとしなかったのは、元と敵対していた南宋と長年交流があり、その関係を重視したためではないかと考えられています。
かくして、度々国書を無視された元はいよいよ武力行使に出ます。推定112艘ほどの戦艦におよそ1万2000人を乗せて対馬、壱岐を攻め、1274年10月20日、ついに博多湾沖に到着。これが世にいう文永の役です。
福岡が戦場となった文永の役とは
沖に元軍が見えたとき、対峙する鎌倉幕府側も迎撃の体制を整えつつありました。国書を幾度も無視していたことから元軍の襲撃を受けることを予想し、幕府は九州に所領を持つ御家人たちに有事のときは防衛にあたるよう書状を出していたのです。対馬、壱岐からの知らせを受けて博多に御家人たちが結集。箱崎に本陣を、のちに福岡城となる山にあった警固所にも兵を配置しました。元軍は箱崎、今津、そして当時海岸沿いであった鳥飼の3方向から上陸し、各地で戦闘が繰り広げられます。戦において、高地に陣を構えることは必須であったことから、元軍は当初警固所(赤坂山)を攻め落とそうとしますが、幕府側に地の利があり守りが想像以上に厚かったこと、また当時周辺は干潟であったことから元軍は馬の足を取られて苦戦。警固所を攻め落とすことを諦めた元軍は、現在の昭代にある麁原山(祖原山)に陣を構え、近くの鳥飼潟でも戦闘が繰り広げられました。箱崎では、元軍が優勢となり、筥崎宮を焼き落としています。その後、通説では神風が吹き、元軍が一掃されたと言われていますが…。文永の役の後、再度の攻撃に備えるため鎌倉幕府は日本海側の守護を北条一族や有力武将に替え、さらに現在の今津から香椎に至るまで石築地(防塁)を構築したのでした。
そして1280年、再び元軍は博多湾に現われます(弘安の役)。
蒙古襲来には「文永・弘安の役、どちらも神風が吹いて元軍を退けた」など、様々な通説がありますが、実際はどうだったのでしょうか? そんな知っているようで知らない蒙古襲来を探ります。
蒙古襲来年表
1268 | 文永5 |
北条時宗が第8代執権となる 第1回目蒙古使者が来日 第2回目蒙古使者が来日 |
1269 | 文永6 | 第3回目蒙古使者が来日 |
1271 | 文永8 |
幕府が九州に所領を持つ御家人たちに防衛についての書状を出す 第4回目蒙古使者が筑前・今津に来る |
1272 | 文永9 | 第5回目蒙古使者が来日 |
1273 | 文永10 | 第6回目蒙古使者が大宰府に来る |
1274 | 文永11 |
文永の役 10月3~5日 元軍、対馬上陸 10月13日 元軍壱岐上陸 10月20日 福岡上陸。箱崎、警固所 (赤坂山)、鳥飼などで戦闘 10月24日 大宰府で戦闘。幕府が勝利をおさめ、元軍は撤退 |
1276 | 建治2 | 石築地(防塁)の建築が始まる |
1281 | 弘安4 |
弘安の役 5月3日 東路軍、対馬上陸 5月26日 東路軍、志賀島上陸 7月頃 江南軍、長崎・鷹島上陸。東路軍の一部と合流 閏7月1日 鷹島を台風が襲う。元軍の多くが被害にあう 閏7月5日 志賀島に残っていた東路軍と幕府軍が志賀島沖で戦闘。 閏7月7日 鷹島合戦 元軍撤退 |
日本に攻めてきた意外な目的とは?
元の皇帝フビライ・ハーンが日本に狙いを定めたのは、領土拡大、金が目的とも言われていますが、最も切実な狙いは日本で豊富に採れる硫黄だったと考えられます。元は火薬を用いる武器を使用しており、火薬の原料となるものが硫黄です。また、日本は元の敵対国・南宋に材木と硫黄を多く輸出していました。元は日本の硫黄を優先的に得る、もしくは独占することで、自国の武器強化を図ると同時に南宋へ硫黄が渡ることを阻止しようとしていたのです。
『蒙古襲来絵詞』の有名なシーンで描かれている「てつはう」にも火薬が用いられています。
鎌倉武士の戦い方は一騎打ちではなかった!?
これまで武士たちは一対一の戦い(一騎打ち)を行おうとし、対する元軍は集団戦法であったために苦戦を強いられたと言われていました。しかし、蒙古襲来の際に活躍した武士・竹崎季長が蒙古襲来の様子を描かせた『蒙古襲来絵詞』(17紙)には、鳥飼潟の戦いで「白石六郎通泰 其勢百余騎 後陣よりかく」という言葉と共に、集団で矢を射る武士団の様子が描かれています。この鳥飼潟の戦いでは幕府軍が勝利をおさめています。
文永の役では神風は吹かなかった!
通説では文永の役で元軍が博多上陸をした10月20日の夜に嵐(台風)が起こり、翌21日朝には元軍の船が1艘も見当たらなくなっていたと言われています。しかし、20日から21日にかけて「嵐があった」と記された史料は一つもなく、科学的に推測しても旧暦10月下旬=現在の11月末に台風が来ることはほぼありません。また、麁原山に陣を構えていた元軍約1万人が幕府軍に見つからずに、沖に停めていた船に全員引き上げて退却することは事実上不可能と言えます。さらに、『関東評定伝』という鎌倉幕府の公式な記録には「10月24日に大宰府で合戦があり、日本が勝って元軍は去っていった」と記載があり、少なくとも24日まで元軍は日本にいたことが分かります。
■なぜ神風が起こったと言われたの?
神風が元軍を追いやったという伝承は、『八幡愚童訓』という八幡神の霊験などを記した書の「夜中に筥崎の神々が出現して、蒙古兵を痛めつけた」という記述、つまり神話が変化して伝わったものだと言えます。
鎌倉幕府を助けた、飛鳥時代築城の水城
10月24日の大宰府での合戦で日本軍が勝利しますが、勝敗を分ける鍵となったのが飛鳥時代に天智天皇が唐・新羅に対する防衛として築いた水城です。大城(おおき)山麓から下大利まで全長約1.2キロメートル、幅80メートル、高さ13メートルの堤防で、当時は外敵が攻めてこなかったため役立つことはありませんでしたが、約700年の時を超えて蒙古襲来の際に力を発揮します。幕府軍は高さがある水城の上から攻撃することで弓矢や投石の威力が増し、反対に水城下にいた元軍の攻撃は威力をそがれ、幕府の勝利となりました。
■大宰府の戦いで負けていたら…?
文永の役が起こったのは旧暦10月の冬。季節風の関係で海から武器や食料の補給することが困難な季節でした。もし重要な拠点である大宰府を攻め落としていれば、元軍は日本側の物資を奪い取り侵略を進められましたが、大宰府を手中に収めることができず、物資も少なくなっていたため元軍は撤退を余儀なくされました。
※政庁の場合は『大』宰府表記
水城土塁断面広場/写真提供:福岡県観光連盟
弘安の役では博多上陸はしていない!
文永の役から7年後、元は東路軍と江南軍を日本に送ります。最初に博多湾に到着した東路軍は、文永の役で苦戦したこと、海から博多方面を見ると海岸線沿いに石塀(防塁)が築かれていたことから、自軍だけで博多上陸をすることは危険と判断。援軍の江南軍の到着を志賀島で待つことにしたのでした。結局、江南軍は博多湾ではなく長崎の鷹島周辺に到着し、志賀島にいた東路軍が博多上陸することはありませんでした。
今津の防塁(左)と、長垂青木の防塁(右)。長垂青木の防塁の一部は巨木の切り株に抱かれ長い歴史を感じます。
写真提供/福岡市
志賀島沖の戦では元軍に〇〇を投げつける
刀や弓など正統派の武器で戦いをしていたイメージがある鎌倉武士たちですが、弘安の役のときに志賀島沖で戦をしたときは意外なものも元軍に投げつけています。『蒙古襲来絵詞』(27紙)には、船上の蒙古兵たちが異物を投げ入れられ鼻をつまみ、顔をしかめ、船上が混乱している様子が描かれています。鎌倉時代に手に入り、思わず鼻をつまむようなものは何か? おそらく、糞尿だったのではないかと推測されています。
鼻をつまむ2人の蒙古兵。糞尿攻撃だけでなく、武士たちは志賀島に駐屯する蒙古軍に度々、夜襲をかけるなどあらゆる方法で追い払おうとしていました。
※歴史的事実には諸説あります。
取材・監修
歴史学者・九州大学名誉教授
服部英雄さん
東京大学大学院修士課程修了。1994年より九州大学で教鞭をとる。日本中世史を専門とし、蒙古襲来や荘園、地名の研究を続ける。現在、九州大学名誉教授。近著に『しぐさ・表情 蒙古襲来絵詞復原 永青文庫白描本・彩色本から』(海鳥社)がある。