「お栄さん」
長崎県佐世保市三浦町2-1
午前11時半~午後3時、午後5時~翌午前3時ごろ(売り切れ終了) 火曜定休
ラーメン650円、おでん150円~
ラーメンを頼んで店内を見渡すと、壁際に「注文して」と言わんばかりのおでん鍋があった。セルフサービスだが、それぞれの具が串に刺さっていて取りやすい。まずは大根と玉子を選ぶ。だしがしみこんだ牛すじもうまそうだ。追加で皿に載せた。周りには、ぼくと同じように待っている間におでんを取り行く人の多いこと。そして、テーブルにはビール瓶がある。たしかにこのシチュエーションに瓶ビールは必須である。
「もともと屋台だから。まずはビールとおでんでしょ」とは、2代目の秋吉千穂子さん(79)。創業は昭和28年ごろ。秋吉さんの義母、フジノさんがラーメン屋台を始めた。佐世保ラーメンの黎明(れいめい)期を支えたのは「お栄さん」のような屋台だった。
おでんの準備をする秋吉千穂子さん
佐世保初のラーメン店は「大阪屋」(平成29年に閉業)といわれている。朝鮮戦争が勃発し、後方支援基地となった佐世保は大いに沸いていた。特需にあやかろうと大阪出身の新郷謙次さんが開いた屋台が「大阪屋」だ。以来、街にはラーメン屋台が続々と誕生。その一つが「お栄さん」だった。ちなみに屋号は、独立前にフジノさんが働いていた飲食店の常連さんが繁盛を願って付けてくれたという。
「佐世保駅の裏に仕込み場があって、街の屋台のほとんどがそこで仕込みをするんよ」。昭和30年代後半からフジノさんとともに働いた秋吉さんはそう懐かしむ。「うちの屋台の番号は105番」。佐世保の街には百数十台の屋台が営業していたという。
定位置は松浦鉄道の線路沿いだった。手動式の遮断機が付いた踏切のそば。「天気が悪けりゃ休み。電車が通過すると風が吹く。だから、のれんに砂袋をさげて重しにしてました」。魚市場、飲み屋街が近くで、とにかくにぎわった。屋台に入るとまずは「おでんとビールちょうだい」。それが客の常だった。
そのおでんは、鶏がらと塩ベースでさっぱりした味わいだ。すぐにラーメンが来るのだから、これくらいの味付けがいい。対して、ラーメンは豚骨の白濁スープ。「佐世保のラーメンは久留米の味よ」と秋吉さんは言うが、久留米よりあっさりタイプ。豚骨の甘いだしがしみる。
屋台から店舗になったのは昭和40年代のこと。近くに良い物件があったので入居し、20年ほど前に今のビルに移った。形態は変わっても、ずっと変わらず深夜まで営業。現在は息子で3代目の充さん(53)が夜を仕切っている。「義母も私も夜中まで働いた。ハードかですよ。でも継いでくれて本当にありがたい」。今も屋台のように深夜3時頃までのれんを掲げている。
佐世保ラーメンの黎明期に屋台で始まった老舗の多くが店を閉じた。現在も続く店は少ないが、どこも変わらず串刺しのおでんを出している。ラーメンを注文して、待つ間におでんと瓶ビール。ここまで含めて佐世保ラーメンだと言いたい。
文・写真 小川祥平
1977年生まれ。西日本新聞社出版担当デスク。
著書に「ラーメン記者、九州をすする!」。
「CROSS FM URBAN DUSK」内で月1回ラーメンと音楽を語っている。
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