昼間の会議で喋(しゃべ)っていると、何かにつかれたように喋りが止まらなくなる。議論が大好きで、先輩たちとも口角泡をとばすことが多かった。幼い頃から、食事中に喋り続けていると、父から「少し黙って食べろ」と叱られた。男は喋りすぎて失敗するとも言われた。子供心に食事中の沈黙に耐えることは辛い時間だった。
BARは男の沈黙の修行場だ。東京時代は、銀座の「うさぎ」(銀座日航ホテルの裏手、今はもうない)、「ルパン」(文藝春秋別館裏の路地の奥の右、常連太宰治、坂口安吾、織田作之助の写真が飾られている)、新宿は檀一雄通りにある「風紋」(林聖子ママが亡くなり、今はもうない)、新宿コマ劇場向かいの「かくれんぼ」(鈴木清順監督夫人がやっていた、今はもうない)で飲んでいた。
博多に来て、中洲中央通りからちょいと路地を東側へ入った「西川亭」を知った。眼のギョロリとした威厳のあるマスターで西川英夫さんといった。ある日、三人連れの客が来ると、うちはお一人かお二人様までと、すぐに断った。三人以上になると、お喋りがうるさくなるからだ。またある日、お客が「まず、ビール」というと、「うちはBARですよ、ビールならどこかよそのお店で」と言った。お客はぶぜんとして出て行った。声の大きいお客には「ほかに、お客様もいらっしゃいますから」と静かに丁寧に注意した。
初めてお邪魔した時、「JTSブラウンの8年をショットグラスで」と頼んだ。「チェイサーはお水でいいですか」と聞かれ、「ではミルクで」というと、達磨さんのようなお顔が少しニヤッと弛緩(しかん)した。カウンター奥の客はずっと文庫本を読みふけっていた。毅然(きぜん)とした静かなBARだった。
中洲人形町通りに「梟(ふくろう)の酒場」という店があった。那珂川より、もう一本東側の通りで、敷地に入り、直角に左に曲がると、れんが敷きのステップがある。アイビーの絡まる素敵な洋館で、正面に大きな木製の鉄枠のドアが聳(そび)えている。円形のさびた鉄製のフックでノックすると、しばらくして上の小窓が開き、ホールのお姐さんが客を確認する。いちげんさんは入れないのでなじみだけの店である。入ると天井の高い空間で、床はフローリング正面奥にカウンターがある。左側の中央に暖炉があり、冬は白樺のまきを燃やしている。右の壁には女優岡田嘉子(1902―92年、ソビエトに駆け落ち亡命した女優)と一緒に写るオーナーバーテン草野さんの写真がある。草野さんは慶應ボーイだ。奥様がママで、私が30歳の頃だから、ママは70代だっただろうか。いつも着物姿でつぶしの廂髷(ひさしまげ)、俗に言う二百三高地だった。ホールには木製のテーブルが四つあり、ゆったりと四脚で、静かに会話を楽しめた。ロックの氷はグラスの底の大きさに合わせておむすび型に削られており、本当のオンザロックだった。
ある日は高橋義孝先生(ドイツ文学者。その頃、東京から九大に教えに来ていた)が教授陣と飲んでおり、ある日は竹中労(ルポライター)、ある日は藤本義一(直木賞作家)が飲んでいた。彼らの会話に若造の私は必死で聞き耳を立てていた。
中洲次郎=文
text:Jiro Nakasu
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)
新刊『団塊ボーイの東京』(矢野寛治・弦書房)
◎「西日本新聞 TNC文化サークル」にて
①4月からの新講座「日本文学映画」研究 受講生募集
②4月からの新企画講座「男の映画」研究 受講生募集
③エッセイ教室 受講生募集「自分の、父の、母の人生を書いてみましょう」
※詳しくは ☎092・721・3200 まで
やましたやすよし=イラスト