48年前、オフィスは天神西通りにあった。今のような繁華街ではなく、人通りの少ない、どちらかと云えば侘しい通りだった。明治通リ側の入口には西鉄グランドホテルがあり、国体道路側には福岡県酒造会館があり、真ん中辺の大名側に入ったところに福商会館があった。中間に原小児科と秋本外科があったが、今はもうない。天神と云うよりは大名の雰囲気で、場末感があった。
オフィスの地下に、とても粋な料理を出す「八作」という小料理屋があった。昼の定食も焼き魚が美味しく、納豆が海苔と一緒に添えられていた。夜の料理もネタが良く、器の選択も美しく、盛り付けも綺麗で彩りが美しかった。ご夫婦で切り盛りをしていたが、「チャゲ&飛鳥」の、チャゲさんのご両親だと聞いた。
ここで毎夕食を摂るには薄給の若輩者にはぜいたくで、お金も続かない。おおむねは大名(紺屋町東通り)にある一膳飯屋「青木食堂」で青春のお腹をくちらせていた。ご飯と味噌汁と、あと一品。おかずの皿を増やすと予算オーバーとなる。空腹のときは思わずもう一皿に手を伸ばすが、これをやると給料日一週間前には上司から借金のはめに落ち入っていた。5千円くらいなら部長級に頼みに行き、1万円以上ならば支社長に頼みに行った。皆さん、快く貸してくれ、もっといらんかの優しさだった。他の上司たちも毎晩食事をおごってくれて、飲みにまで連れて行ってくれた。ほんに互助会のような会社だった。
帰りは青木食堂の右側の角にある「駒屋」という和菓子屋で豆大福やきんつば、みたらし団子を贖い、赤坂の安アパートで一人ほうじ茶で甘味にふけっていた。私は無類の甘党で、幼いころ母は常にぜんざいを鍋に作ってくれていた。学校から帰ると、小豆を掬うだけ掬ってテンコ盛りのぜんざいを食していた。西鉄グランドホテルの天神側お向かいにそれは美味しい回転焼き屋があった。「太閤焼」と云っただろうか、大判であんこがたっぷりの代物だった。これを買ってきて、三時のおやつに食していた。熱々はまさに至福の時で、この店はいつのまにか無くなっていた。
お昼は西通りからちょいと大名側にまがってすぐに、「讃岐うどん」があった。入口に大きな提灯がかかり、縄のれんをかき分けるとカウンターである。厨房の真ん中でご主人はいつも1mほどの麺棒でうどんを伸ばし、三重に折り曲げては包丁で細く切る。打ち立てを鍋に入れて湯がいてすぐに出てくるのだから旨いに決まっている。私のお好みはごぼう天うどんに、生卵おとし、稲荷が二個。うどんは腰とバネがあり、表面が艶やかで、喉越しもすばらしかった。ここの向かい側に「モンブラン」というケーキ屋さんがあった。私はモンブラン狂である。どこに行ってもモンブランを食す。東京時代は皇居お堀端のパレスホテルのモンブランが一番と思っていたが、博多に来て東京よりここの方が数段美味しいことに気づかされた。このモンブランも今はない、寂しい限りだ。
中洲次郎=文
text:Jiro Nakasu
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)
新刊『団塊ボーイの東京』(矢野寛治・弦書房)
◎「西日本新聞 TNC文化サークル」にて
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やましたやすよし=イラスト
Illustration:Yasuyoshi Yamashita