インフルエンザ ※1 は江戸時代にも流行した。流行のたびに江戸っ子は、「お駒風(こまかぜ) ※2 」とか「お七風(しちかぜ) ※3 」などと名前をつけた。
流行(はや)り病(やまい)は、インフルエンザのほかにコレラ・麻疹(ましん)(ハシカ)・疱瘡(ほうそう)などがあった。
疱瘡は天然痘のことで、えんどう状の瘡(かさ)が体中にできて、治ってもあとが残る。痘(とう)瘡・豌豆瘡(えんどうがさ)・裳瘡(もがさ)・疫瘡(えきそう)などとよばれた。天平7年(735)の豌豆瘡流行が『続日本紀』に書かれている。天然痘の文献初出だ。その2年あと、天平9年の記事 ※4 をみよう。
「是年春疫瘡大發初自筑紫来経夏渉秋公卿以下天下百姓相継没死不可勝計近代以来未之有也」(このとしはるえきかさおおいにはっしはじめつくしよりきたり なつをへあきにわたり くぎょういかてんかひゃくせいあいつぎぼっしす(?)きんだいいらい(?))
春、筑紫に発生した疫瘡(えきそう)が、どんどん広がって、夏から秋にかけ京に及んでパンデミックとなり、公卿以下天下百姓がばたばた死亡したというんだから、筑紫の者としては申し訳ない気持ちになる。
さて、博多も天平以来、疱瘡流行はつづいた ※5 、というか大宰府管轄の日本唯一の国際交易港だったのだから、天然痘でもなんでも海外の文物は、まず最初に博多湾入りしたんだ。
ずっと下って江戸時代の宝暦2年(1752)、疱瘡に関する奉行のお達し ※6 がでた。博多津要録に人参 ※7 の記事がある。
品質の悪い下人参(げにんじん)30匁(もんめ)余りを下直(げじき)(安値)で売り払う。疱瘡流行のいま、庶民で人参に手の出なかった者が望むなら、人参1匁(3.75g。5円玉の重さ)につき代銀25匁(約93.75g)で、一人重さ5分(ごぶ)(1.875g)までは自由に買ってよし、というものだ。5分の下人参 ※8 の値は銀12.5匁(46.875g)となる。
さて、この高麗人参の記録の7年後、宝暦9年6月15日には、「疱瘡山」なるものについて次の記事がある(右書)。
山笠6本が櫛田入りしたあと、疱瘡山だといって、小ぶりの山笠を作って(それも3本!)「櫛田に舁き入れ、津中廻し申し候」、観覧の御奉行衆が、「扨(さ)てさて不埒千万(ふらちせんばん)の儀、不届きに思召(おぼしめ)され候」というのだ。もちろん、博多年行事はきびしく呵(しか)りつけるよう指示されて、16日に年寄から若者まで当該者を年番所に呼び出し、「重々稠敷(じゅうじゅうきびし)く呵(しかり)申し」たことだった。
ところで、この疱瘡山より42年前に、福岡の諸士(武士)が「子供疱瘡立願(りゅうがん)山笠」をつくって「町方の子どもを雇い、舁き廻らせ」た。以後「無用に候」(禁止)とある。黒田家のお侍も山笠が好きだったんだ。つづく
※1 インフルエンザ…冒頭のインフルエンザから天平の天然痘流行あたりまでは氏家幹人『江戸の病』講談社選書メチエを参考にした。
※2 お駒風…安永の中頃流行の風邪。密通と夫殺しで死罪の、事実に基づく浄瑠璃『恋娘昔八丈(こいむすめむかしはちじょう)』の城木屋お駒から。
※3 お七風…文化1年八百屋お七の小唄が流行っていたので。
※4 天平9年の記事…国会図書館デジコレ『国史大系第2巻続日本紀』経済雑誌社編。コマ番号113/405。
※5 疱瘡流行がつづいた…WHOが天然痘根絶を宣言したのは1980年で、続日本紀初出から1245年後だ。
※6 奉行のお達し…博多津要録(三)15頁。秀村選三ほか・西日本文化協会。
※7 人参…幕府が種子を分配した御種人参か。
※8 5分の下人参…5分(1.875g)の高麗人参の代銀46.875gは、江戸時代のレート銀1匁=1200円だと15000円なんだけど、買う?(レートは『日本人の給与明細』山口博・角川ソフィア文庫)
長谷川法世=絵・文
illustration/text:Hohsei Hasegawa