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長谷川法世のはかた宣言105・稚児舞

長谷川法世のはかた宣言105・稚児舞


 この四月号が発行されているころには、博多松囃子が国の重要無形民俗文化財の指定を受けているはずだ。祝うた~!

 博多松囃子の三福神※1と稚児舞(ちごまい)は、博多どんたくの原点だ。だから明治通りのパレードも松囃子稚児舞ではじまる。あとにつづくのが通りもん※2なんだね。

 稚児舞は東流と西流が二年交代で受け持っている。舞姫(女児)と囃子方(男児)、それに地謡(じうたい)の大人たちが松囃子の衣装を身に着け、「兒(ちご)」の字を入れた帽子をかぶる。

 稚児舞は女児が舞うのだけれど、もとは男児が舞った。江戸時代の『石城志(せきじょうし)※3』には、「十歳ばかりの男の童に、天冠(てんがい)を戴(いただ)かせ、舞衣(まいぎぬ)を着せ、小さなる假閣(さじき)に車を付け、福岡の城に引き至り、祝言の謡物(うたいもの)をうたひて舞かなづ(舞い奏でる)」と書かれている。昭和24年(1949)生まれの男性知人は、「稚児舞をやった、弟も舞った」と話す。

 さて、稚児舞は稚児謡(うたい)※4に合わせて舞う。

 〽唐衣(からころも)、唐衣、唐衣、裾野(すその)の原の姫小松(ひめこまつ)、姫子松、姫子松、引けば、千歳も、わが袖に、籠る春ぞ、目出度き、此の御代の春ぞ、めでたき…(以下この数倍長い)

 唐衣は奈良時代には文字どおり中国の服だった。この言葉は和歌の枕詞でもあり、紐・着る・裁つ・袖、そして「裾」にかかるそうだ。平安時代になると同じ文字で「からぎぬ」と読み、十二単の一番上に羽織るポンチョ型にデザインされた。唐衣の下※5には腰に「裳(も)」という長いエプロンをうしろ前にまとう。裳の裾には浜辺の景色を描いたりする。白砂青松にはちいさな姫子松もつきものだ。「唐衣裾野の原の姫子松※6」のイメージだね。

 問題はそのあとの「引けば」だな。この意味がずっとわからなかったけれど、歳時記をめくっていてやっと判明した。新年の季語に「小松引・子の日の遊び・初子の日」というのがあった。天皇と共に新年の最初の子の日に、野に出て小松を引き抜き、持ち帰って宴を張る王朝時代の行事※7があったんだ。「ねのひ」は「根延び」とも読んで延命長寿を祈ったとか。歌詞の意味は、初春に姫子松を引くと千年もの春が長い根とともに袖の中に呼びこまれたようで、この御代はめでたいかぎりですねえ、というようなことかな。

「新古今和歌集」に、「さざ波や志賀の浜松ふりにけり誰が世に引ける子の日なるらむ」(春上・16番※8)というのがあった。ただし、ここでの「志賀」は琵琶湖の南西部沿岸の地名だそうで。志賀島だったらなあ。

※1 三福神…福神(福禄寿。寿老人とも)・恵比須(夫婦)・大黒の三神。恵比須神が夫婦(全国的に稀有)なので三福神だけど馬は4頭。
※2 通りもん…最後の年行事(江戸時代の博多の町役人)の一人山崎藤四郎の『追懐松山遺事』(明治43年)には「曳き物」のことをいうとある。曳き物は明治初年には70~80も出されたそうだ。一町に一つ出したくらいの数だ。
※3 石城志…小児科医の津田元顧・元貫父子が編纂した博多地誌。明和2年(1765)成る。
※4 稚児謡…歌詞は『福岡市民の祭り50周年史』福岡市民の祭り振興会平成23年刊による。188頁
※5 唐衣の下…現代は唐衣の裾を裳の大腰で押さえて着用する。裳の小腰だけが十二単の帯。
※6 姫子松…ゴヨウマツの異称。単に小さな松の意も。
※7 王朝時代の行事…小松引きとともに若菜摘みがあり羹にして食べた。のちに7日に行われ七草がゆのもととなった。
※8 16番…志賀の浜のこの松はどなたの御代の子の日の小松だろうか。こんな古木にも幼い時はあったんだよなあ。(誤訳御免)


長谷川法世=絵・文
illustration/text:Hohsei Hasegawa

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