今回の自習の目的は、1.祇園祭の山のルーツ探し。2.その形を知る、なのだが、无骨(むこつ)法師の件では「大嘗会の標(ひょう)」に似せたものだったとしかわからない。自習をつづけて幾星霜、ついに標の形が『類聚国史(るいじゅごくし)』と『続日本後紀(しょくにほんこうき)』に書かれていることを知った。
―弘仁14年(823)10月、淳和(じゅんな)天皇 ※1 の大嘗祭に先立って、右大臣藤原冬嗣(ふゆつぐ) ※2 らが、「一切玩好(がんこう)の金銀刻鏤(こくろう)等の飾を用ひず。たゞ標は榊を以(もっ)て之(これ)を造り、橘幷(なら)びに木綿(ゆう)等を用ひて之を飾り、即ち悠紀・主基の字を書き、以て樹の末に著(つ)く。およそ清素を以て神態に供するのみ。」と奏言した。―(『類聚国史/巻八』)(『平安時代の儀礼と歳時 ※3 』より)
〈いっさい珍品の金銀彫刻の飾は用いない。標は榊のみでつくり、橘と木綿 ※4 で飾って、悠紀・主基の字を書いて樹の末に取りつける。すべて清素にして神態にお供えするのみだ〉(誤訳御免)
う〜ん、「国風宣言」とでも言うような強い調子だ。にもかかわらず10年後、天長10年(833)仁明天皇大嘗祭の標の飾り。
「悠紀主基共立標、其標、悠紀則慶山之上栽梧桐…」(続日本後紀 ※5 )〈悠紀・主基とも標を立つ。その標、悠紀すなわち慶山(けいざん) ※6 の上に梧桐(あおぎり)を栽す…(誤訳御免)〉。つづけて、鳳凰二羽・五色雲・中国の伝説皇帝の老臣と麒麟(きりん)・連理(れんり)の呉竹(くれたけ) ※7 。主基の標は、慶山に恒春樹(こうじゅんじゅ) ※8 ・伝説の仙女西王母(せいおうぼ)・舜(しゅん)・桃を盗む童子・神鳥・麒麟・鶴の像、という二基ともに「唐風」。
大嘗会の標に似せた无骨の作り物は、国風・唐風のどちらだったろう。国風文化は寛平6年(894)の遣唐使廃止以降だと教わった気がするが、二つの例は半世紀以上前だ。もっと前の大同3年(808)には、大嘗会の楽の演者らが国法に背き、唐からの輸入品を飾りつけているのを禁じるようにと、平城(へいぜい)天皇の勅があった ※9 そうだ。すると、国風文化ははやくから国策的に推進されたような。
いろいろ勉強した大嘗会の標だが、中世後期に絶えてしまったのだとか。
さて、標を標山(しめやま) ※10 と書く件、思いあまって二、三問い合わせたところ、折口信夫著『古代研究/髯籠(ひげこ)の話 ※11 』がルーツという。買って、開いて、途中下車。歯が立ちません、いつかなんとか。
今回の自習で思わぬ収穫があった。京都祇園祭で、いつのまにか「胡瓜断ち」が定着しはじめているが、博多祇園山笠からの逆輸入 ※12 ではないか、というのだ。長い歴史の中ではそういうこともあるだろうね。
※2藤原冬嗣…775~826。閑院左大臣。平安初期嵯峨朝・淳和朝初期の重鎮。良房の父。
※3平安時代の儀礼と歳時…山中裕・鈴木一雄編。至文堂。
※4木綿…楮(こうぞ)の皮の繊維でつくった糸。幣(ぬさ)として神事の際、榊の枝にかける。
※5続日本後紀…六国史の第四。略して続後紀。
※6慶山…めでたい山(?)
※7連理の呉竹…別々の根からでた竹が地上で繋がったもの。
※8恒春樹…香木。
※9勅があった…全現代語訳森田悌『日本後紀/中』講談社学術文庫より。
※10標山…「神の標(し)めた山の意味」(古代研究「盆踊りと祭屋台と/二.標山」)。標は占める範囲を示す印。しめ縄は標縄とも書く。目印としての標に神聖の意を込めて標山とした折口用語か。読んだところでは、柱・鉾に関する説であり、山には言及されていないのではないか。ただし、『中右記(一)』寛治元年11月19日条に「両国引標山」とあり「標山」は熟語とも。が、『続後紀』天長10年の悠紀主基の記述直後に「悠紀楽標、則大象之背」とあり標は必ずしも山のみではない。標の訓の異同は訓の史料がないからだろう。問い合わせ先の訓の一つは「ひょうのやま」。標をひょうとしたのはこのご教示による。なお、東野治之「大嘗会の作り山―標の山の起源と性格」2004は、標は神の依り代ではなく単なる目印としている。
※11古代研究/髯籠の話…角川ソフィア文庫『古代研究Ⅰ民俗学編1』
※12逆輸入…澤木政輝『祇園の祇園祭―神々の先導者宮本組の一か月』平凡社
長谷川法世=絵・文
illustration/text:Hohsei Hasegawa