
「俺達に墓はない」
この夏、知人の葬儀に参列した。その折、導師の僧侶が読み上げたのは、蓮如の「白骨の御文章」だった。蓮如は室町時代、貧しい寺の住持から立身し、浄土真宗を一大教団へと築き上げた中興の祖である。
蓮如は真宗の教えを分かりやすく説くため、全国の門徒に「御文」と呼ぶおびただしい数の手紙を書き送った。
「白骨の御文章」は、その代表的な一文だ。
《朝には紅顔ありて 夕には白骨となれる身なり》
朝には元気だった者も、夕方には死んで骨になるかもしれない…。人の世のはかなさ、無常観を表現したこの文章はいまも生命力を保ち続けている。
「生老病死」は人間にとって最も根源的なテーマだが、若い頃にはまったく意識しない。歳をとっても「その時」が近づいてくるまで遠ざけておきたいのが大方の心情ではないだろうか。
だが、実を言うと、このところ、お墓のことが少し気になり始めているのだ。
我が古里には先祖代々の墓がない。周囲には無縁墓も増えているという。
新聞のチラシや「ぐらんざ」の特集には、樹木葬や永代供養合祀墓の美しい写真。「へぇ~、これいいじゃん」とは思いながらも、それより先に妻と合意しなければならない大事な交渉事が待ち構えている。
〈墓だけは別にしてネと妻が言い〉
〈墓買うが部屋はあなたと別にする〉
サラリーマン川柳から拝借したが、これから本格化する墓のかたちを巡る我が家の交渉は、さてどういう結末になるやら…。
お墓の問題は家制度が流動化していることでもある。婚家で亡くなればその家の墓に入る…そんな時代は遠景に去りつつある。
「夫の実家の墓へ?それだけは絶対ノーね」と笑う女性を私は何人も知っている。
「家の中の死」から「個人の死」に変化する中で、葬送のバリエーションも人の数だけ存在する。家族葬や直葬が増えているように、埋葬のかたちも様々に変わる。
その昔、「俺達に墓はない」という映画を観た。現金強奪を繰り返すワルを松田優作が演じていた。「ワルに安住の場所は要らない」ということなのだろう。
それから幾十年、「墓がない」のはワルではなく、時代の波に揺さぶられ続ける我らシニアである。しかし、それもまた良しなのだ。
最後にもう一句。
〈ローン終えほっと束の間墓地ローン〉
終わりなき旅は続く。
(ジャーナリスト。元西日本新聞記者)
馬場周一郎=文
幸尾螢水=イラスト