親不孝者
「今月もやっと送れました」
毎月、月末に母から現金封筒が送られてくる。きっちり3万円が入れられている。学生には高額の仕送りである。父母は小さな商売をしている。東京での学生生活にいくらか掛かるかの知識は無かった。父母は相談しあい、当時の大卒初任給の手取額に倣った。
いつも母の文面は、無駄遣いをせぬように、しっかり勉強をするように、よく食べ規則正しい暮らしをするようにと書いてある。店の売り上げが厳しいらしく、今月も「やっと」の言葉で文面は締めくくられていた。
上京時の母との約束は、仕送りはするから、代わりに必ず毎週手紙を出すことが必須条件だった。四年間、毎週毎週、東京の一週間の出来事を書いて送った。昭和42年の切手代は15円、図案は紺地に白菊だった。
3万円は、まず下宿に12000円を支払う。内訳は部屋代8000円、朝夕二食付なので食費4000円。のこり18000円で、1ヵ月を暮らす。一日に均せば600円の暮らしである。交通費を浮かすために、学校までは井の頭公園を横切って吉祥寺の町を歩く。昼は学食で食べるので、カレーライスなら30円くらいだ。親掛かりの身分のくせにタバコを喫う。よってハイライトが80円、帰りに仲間とコーヒーを飲む。「ファンキー」と云うJAZZ喫茶でコルトレーンのテナー・サックスに身を任す。残りはほとんど書籍代である。本はウニタ書店で買う。吉本隆明の著書が主力に置かれていた。
親への手紙には井の頭公園や、上連雀下連雀、大学の欅の四季の移ろいをしたためる。あとは講義の内容、教授のことなどが主である。大学と云うものを知らない両親に、せめて大学の風を届けたかった。母が取っておいてくれた当時の手紙を読むと、我ながら気恥ずかしい。新宿で酒を飲むこと、大学近くの雀荘で麻雀に淫していることなど、一切書いてない。学校と下宿だけを行き来する好青年が描かれている。私は絵空事を書いている。母の深夜までの労働を思いながら、飲み屋で魂を焦がし、徹夜マージャンの紫煙の中で肺を痛めていた。潤沢な仕送りを受ける度に、安閑とした堕落の身分を恥じ、罪の意識に後ろめたく、あせり、葛藤し、結果、無為な時を過ごしていた。
一発当てようと、小説の真似事を書き、新人賞に応募をしていたが佳作にも掠らない。母の手紙にはそんな夢のようなことは考えず、地に足の着いた勉強をしておくれと書かれていた。とても小説の才などあるべくもなく、それは自身充分に承知していた。
一年目の成績は芳しくなかった。下宿の先輩から、「可」なら教授に云って落としてもらえ、とアドバイスされていた。四年卒業までに「優」は20以上取れ、可は優と相殺になる。純然たる優20以上をと知恵をつけられていた。優20以上なら、就職時に学校推薦が受けられるはずだからと。結果は優6、良5、可2、よって優の数は4にしかならない。
私は成績表を母に送らず、握りつぶした。
親不孝者である。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)