はとバス
高校時代はただ大学へ入ることだけが目的だった。大学へ入ってみると、次の目標が無くなった。「優」を多く取り、良い会社に入るということが目的と成りえず、虚しいことに思い始めていた。せめて下手な小説を書くことだけが小さな生き甲斐となっていた。
四十三年前、父母へ送った手紙を読み返している。
「この頃、燃えるものがありません。将来、このままサラリーマンになって、33年勤めて定年になるのかと思うと、人生なんか本当につまらないように思えて仕方がありません。ただ惰性で生き、そして結婚し、子供ができ、子供をさも生き甲斐のように糊塗して、サラリーを運ぶだけの人間に堕して、歳をとり、死んでいく。人生って何だろう、国って何だろう、打ち込むものがある三派(学生運動)の連中が羨ましい…」
と、ペシミスティックに刹那主義に敗北主義に書いている。親からの仕送りで食うことに困らない私は、引き篭もって不善なことばかりを考えている。
両親は直ぐに上京して来た。
母は着物で、父は日頃着ることの無い背広にネクタイ姿だ。下宿の小母さんにご挨拶し、田舎の拙いお土産をたんと渡し、息子がいつも通る井の頭公園や吉祥寺の町を歩き、キャンパスにも足を伸ばした。父母は大学というのは初めてで、レンガ造りのクラシックな建物を見て、新京(現・長春)の建物のようだと言った。
下宿は狭くて泊まれないから、両親は大久保に宿を取った。その日は私も泊まり、久々に三人川の字で寝た。
翌日は東京見物をしようと、新宿駅東口から「はとバス」に乗った。皇居、二重橋、銀座、浅草雷門、仲見世、東京タワー、明治神宮あたりを廻った。大きなバスにお客は私達三人を入れてわずか七人。ガイドさんが明るくて活発で愛嬌の良い娘さんで、両親はいたく気に入っていた。その夜も大久保に泊まって、翌夕二人は東京駅から夜行寝台で、九州へ戻っていった。私は直ぐに両親宛に手紙を出した。その手紙も手元に残っている。
「この度のこと、早速に上京して頂きありがとう御座います。少し不満を言いますと、あのくらいの文面で慌てて上京する必要はありません。それでは子は育ちません。持たなければならない独立心も生まれません。このままでいくと依存心だけのヤワな男になります。
どうぞもうご心配なさらずに。
はとバス、楽しゅう御座いました。」
親を説教している。どうしようも無いバカ息子である。
すぐに第十二回「小説現代新人賞」の予選発表があった。90人くらいが残り、最終選考は5人くらいに絞られていた。もちろん、私の名は無い。この賞は第六回を五木寛之氏が「さらばモスクワ愚連隊」で制し、急激に応募数が上がっていた。第十二回を誰が制したか記憶に無い。ただ最終選考に北原亞似子氏の「粉雪舞う」が残っていたことを今も覚えている。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)