勘当息子
母に送った40余年前の手紙を読み返してみると、書いた自分自身が嫌になる。何かにつけて金の無心ばかりを書き連ねている。
本を買う。洋書を買う。服を買う。靴を買う。度がすすんだとメガネを買い替える。友人と旅行をする。軽井沢や伊豆湯ヶ島に、ドライブ旅行である。夏の海水浴は鎌倉や、ちょいと足を伸ばして伊豆の弓ヶ浜。弓ヶ浜は半弓型の砂浜を持つ、小ぶりな海浜で直ぐ近くに石廊崎の灯台がある。ゼミ旅行がある。主に八王子セミナーハウス、もちろん合宿である。自動車の免許を取ると云う。当時自動車学校は約5万円ほど、これはすべて飲み代に消えて、結局在学中は取らずじまいだった。
夏休み、春休み、冬休みの帰省費用。東京から九州まで特急で4500円くらいだったと記憶している。あと年四回の授業料の支払いがある。一回分が27950円、母に送っていた手紙の中に、大学からの領収書がそのまま入っていた。今に換算して約20万円くらいか。月の生活費が35000円、部屋代と朝晩の食費12000円を引くと、23000円で暮らしていたことになる。郵便切手は普通封書で15円、紺地に白菊のデザイン。速達で65円、切手のデザインは茶色地に埴輪の馬だった。
昭和44年の手紙を読んでいると、余程郵便事情が悪かったのか、現金封筒が九州から三鷹市井の頭まで一週間を要している。郵便局のせいだが、この遅れを手紙で母を責めている。とにかく月末になるとお金がない。まさに素寒貧、下宿の小母さんや隣室の先輩、学校の友人にお金を借りて糊口をしのぐ。文面は「こんな遅れが二度とないように、今後はすべて速達にしてくれ」と居丈高である。下宿に電話はあるが、小母さんにめったなことでは使用を頼めない。しかも居間に置いてあるから、話の中身がすべて聞かれてしまう。よって往来の赤電話まで走るのだが、十円玉を30枚くらい用意しておく必要がある。常日ごろから引き出しの小箱に十円玉を貯めているのはそのためである。けっこう早口でしゃべるのだが、母の「ちゃんと食べているか、体は元気か、学校には行っているか」の繰り言で時間を食う。十円玉は次々と電話機の胴体に吸い込まれていく。
時には電報を使う。当時、ウナ電で40円。用紙には宛名欄があり、発信者欄があり、通信文欄は10文字×6行である。受け取る側の電報用紙は住所、文面ともにテレグラムで印字された紙が糊で貼られている。もちろん日本電信電話公社時代の話である。国鉄の小荷物が九州から中央線吉祥寺駅置き止めで900円。ちなみに吉祥寺に春木屋というメンズショップがあった。今もあるかどうか分らないが、当時バルキーセーターを買った領収書がやはり手紙の中に残されていた。4300円と記されている。今に換算して約3万円。マンシングのポロセーターが2800円である。衣類は今より昔のほうがずい分高かったようだ。
とにかくこの子が私の息子であれば、私はとうに勘当している。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)