父のビフテキ
父は夏休み中、連日、来る日も来る日も夕食にビフテキを焼いてくれた。まだ交通事故の後遺症で右半身を縦横には動かせなかったが、「リハビリだ」と云ってフライパンを左手で扱い、ケチャップとソースをたっぷり入れて焼いた。肉を食えば、結核の治りが早いと思い込んでいる節があった。とくに血が滴る程が体に良いと、ほとんどレアに近い焼き具合だった。家族の食事は簡素なもので、毎夕自分だけがステーキだった。
肉を喰らい、週に二回病院に行きストレプトマイシンを射つ。毎食後、パスとヒドラジッドを服用する。パスは喉にこびりつきザラリとして飲み辛い。ヒドラは妙な苦さがあり、ガラスの粉を飲まされている気分だった。療養の身であるから、パチンコ屋やビリヤード場、雀荘に顔をだせない。第一、田舎の情報は早く、私が肺結核である事は当に周辺に知れ渡っている。蟄居謹慎の身である。
陽に当たらぬようにと、昼間の外出もできない。57キロにまで落ちた体重も、父のビフテキのお陰で元の62キロを越え、66キロにまで膨張していた。薬と肉と無聊な暮らしと肥満、21歳で腹がタプンとし始めていた。
昼間動かず、薬もしっかり飲んでいるのに、血沈検査の下降スピードは一向に収まらなかった。父は前にもまして分厚いステーキを用意するようになった。
また今夜もレアのビフテキだ。無理やり嚥下する。
「よく噛め、30回は噛め、噛まなきゃ、逆に胃腸を悪くする」
父は常に私の顎とこめかみの動きを見ていた。私が幼い頃、父は結核性肋膜炎をやっていた。その時の菌が幼児の私の胸に入り込み、発症させたのではないかと悔やんでいた。私は私で焦っていた。友に単位の取得も、成績も越され始めていた。就職の道も相当険しいことになるだろう。風呂に入るたびに鏡に映る、生白い体、薬のせいか筋肉の女性化した体を見るにつけ、希望が萎えていく。小咳はまだまだ頻繁に出た。微熱もあり、痰も絡む。
父が云った。
「学校でたら、帰ってきて、家を継げ。おまえには東京の街は無理だ」
私は何の反論もしなかった。
毎日、家の屋根に日傘を差して出ることが唯一の気散じだった。周囲を覆い隠すビルも木立もない。すぐ横を日豊線がのんびりと走っている。高い屋根といえば寺町筋のお寺の本堂だけである。上から見渡せばほんの坪庭ほどの界隈に町中の人々が暮らしている。他人の家の中のことを知悉し合って暮らしている。屋上の屋根が太陽の熱にやけており、熱い空気が肺腑を膨らませる。この町で家業を継ぐことはできない。故郷とは功なり名をとげてから帰るところだ。早く東京へ帰ろう。
「持て余す パスとヒドラと そして肉」、親不孝者はそんな川柳を陰で詠みながら、60日間、レアの肉を食べ続けた。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)