井の頭のネコ
東京へ戻る。
遅れた勉強を取り戻さなくてはならない。
大学へ行き、図書館に巣食い、濫読に励む。古本屋で本を買い込み、わざと積ん読状態にする。積んでおけば、読まなくてはのプレッシャーに押されて読む。本というものは読む読まないは別にして買い込むことだ。すると人は読む。読み終えて、つまらぬ本は件の古本屋にまた売りにいく。幾らにもならないが、新たな本を買う足しとなる。故に、汚さずに読む。赤字も印も一切入れない。必要な箇所はノートにすべて書き写す。写しながら覚え、後日、ノート全体を記憶していく。前の持ち主がよく印を入れているが、なぜかそこは心を打たない。人間と云うもの百人百様、感銘の場所が異なることに驚く。
古本屋の帰りに、いつも井の頭公園を散歩する。吉祥寺に近い北側は人が多く散歩に適しない。南側のちょっと暗い道を歩く。東に歩いていると木立の茂みの下に、目が見えるかどうか位の仔ネコがダンボールの中に捨てられていた。人っ子ひとり見えない林の道である。赤子の呱々の様な声で泣いている。まだ私の手のひらに納まるくらいの、仔ネコである。黒猫だがオールブラックではなく、手足四本に白いソックスを履いており、胸毛も一部白い。雑種のネコである。
あまりに弱い声でミャーミャーと泣くので、我が身を見ているようであり、持ち合わせたビスケットをやる。が、幼すぎて齧れない。仕方なく胸に抱き、ビスケットを噛み砕いて、離乳食状態にして口に入れてやる。相当にお腹が空いていたとみえてよく食べる。二枚ほどを食べつくした。
また茂みに返し、「誰かいい人に拾われろ」と言ってきびすを返した。しばらく歩いていると、なにか着いて来るかそけし枯葉の音が聞こえる。振り向くと先ほどの仔ネコである。振り切ろうと、早足にするも、ついてくる。もっと速足にしても着いて来る。親と間違えているのであろうか。
飼いたい気持ちもあったが、下宿暮らしである。小母さんの許可も出ないだろう。
再び胸に抱き、そのつぶらな瞳をじっと見つめて、芭蕉の「野ざらし紀行」の一節を伝えた。「誰が悪いのでもない。天命であり、身の不運を嘆け」そのまま、井の頭駅に近い、少し人通りのある一角にそっと下ろして、走り逃げた。
芭蕉のごとくクールに物は言ってみたものの、一晩中気になり、翌朝すぐに見に行くと、果たして仔ネコはまだそのままに居た。少し、汚れ初めていた。また胸に抱き、ビスケットを噛み砕いて口に含ませる。ふと古本屋のオヤジが猫を飼っていることを思い出した。吉祥寺の南口まで抱いてゆき、本屋へ顔を出す。オヤジはいつも下を向いて本を読んでおり、お客の動きなんぞ何にも興味が無い。年老いた三毛猫が時々膝に座っているが、今日は奥に入っているのか姿が見えない。
愛猫家内田百閒の古書が並べられているあたりに、そっとこの黒を置いて去った。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)