ゴンサイ
母からなぜ手紙をくれないのか、のなじりの手紙が来た。大学4年間、毎週手紙を書くことが東京の大学にやる母との約束だった。
私は下宿でふさぎ込んでいた。
なぜか何にもやる気がしないのである。授業に出ることも、友に会うことも、とにかく外へ出る気がしないのである。喫茶も、映画も、公園の散歩も、古本屋めぐりも、何もかもが面白くないのである。五月病などと云うものではない。なぜならもう3年の終わりである。あれは1年生のかかる心の病である。幼い頃から、いつも心の底に巣食っていたのは、生まれて来なきゃよかった、と云う厭世観である。母は私がお腹にいるころ、生活が苦しくて私を堕ろすつもりだった。祖母がとめた。あのとき堕ろされていれば、今頃蓮華の上で何不自由なくただ結跏趺坐していればすんだだろう。他人と競うこともなく、成績の順位を争うこともなく、他人の暮らしぶりに嫉妬することもなく、自分の生まれ落ちた家を憎むこともなかったであろう。
多くの人と比較し、上ばかりを見つめ、卑屈な汚水が心を浸潤していった。東京の大学に行き、何不自由なく仕送りをもらう身分でありながら、宿命を恨んでいた。
ある日、ゼミの友人Oが下宿を訪ねてきた。
T教授が差し向けたらしい。
「教授も、みんなも、心配してるよ。こんどゼミ旅行で伊豆にいくよ、出てこいよ」
「伊豆かぁ、いいなぁ」
「踊子のルートを下田まで歩こうと云う企画さ、行こうよ。もうすぐ卒論のテーマも出るし、ちゃんと出席しないと、留年になるぞ」
留年はできない。父母は必死で働き、授業料を捻出し、私に仕送りをしている。「今月も、やっとできました」の母の声が脳裏をかすめる。4年できちんと卒業し、どこかに就職するものと思っている。Oの父親はM財閥グループの社長の一人と聞いていた。
「もう就職は決まってるんだろう」
「うん」
「商事か、銀行か、重工か」
「いや、そんな中枢には行けない。親父は、力は有るようだけど、おれは権妻の子なんだ」
「ゴンサイって、何だい」
「権妻って、平たく云えば妾、今風に云えば2号の子なんだ。本家の兄弟に優るところには入れない。母はがんばってるようだけど」
お妾さんの子であることは知っていた。知っていて、わざとカマをかけたのである。
「本妻であれ、ゴンサイであれ、いいよなぁ。親父に力があって、羨ましいよ」
ふっと、田舎の小さな店先で商品に値札を一つ一つ付けている父の姿がよぎった。宿命を恨み続けている私にも、喉元まで熱いものがせり上がってきた。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)