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ハットをかざして 第92話

ハットをかざして 第92話

中洲次郎=文 やましたやすよし=イラスト


有馬の殿さま

結核の具合もだいぶ良く、ストマイの注射は終わり、薬もパスとヒドラだけになった。阿佐ヶ谷の河北病院まで行く必要もなく、大学の裏手、グランドの横にある診療所へ二週に一度顔を出すだけにまでなった。

診療日に休講があれば、グランドの脇の芝生に寝転がり、啄木のように雲を眺める。

野球部が練習をしている。しばらくして、蟷螂かまきりのような痩躯の男がユニフォーム姿で現れた。部員たちが近寄り、「有馬監督」「有馬監督」と帽子を取り、直立で挨拶している。

「有馬監督…?」

私は身を起こし、蟷螂の方を凝視した。文芸雑誌や時々テレビで見る顔である。

「有馬頼義(よりちか)か…?」

私は立ち上がり、少しずつ少しずつ近寄って行った。バックネット裏近くまで寄ってみた。

いかに野球帽を被っていても、あの眼鏡、あの横顔、確かに有馬頼義に相違ない。監督はしばらく建国体操のような運動をし、身をほぐしてから、ノックを始めた。

「貴三郎一代」が思い起こされた。大映で映画化され、タイトルは「兵隊やくざ」だった。高校2年3年と、塾をさぼってはよく観に行っていたものだ。やくざ上がりの二等兵大宮喜三郎に勝新太郎、その教育係有田上等兵に名優田村高廣である。この田村の役こそが、今眼前にいる有馬頼義である。世が世であれば、久留米藩の御殿様である。映画は勝のやんちゃさ無鉄砲さがドンピシャの嵌り役で、田村は田村でインテリなだけに頭脳を使って軍の卑劣な悪者たちと闘っていく。場所はソ連国境に近い満州の奥地、腕力と知力の二人の痛快関東軍内幕戦争アクション・コメディである。

シリーズはけっこうあるのだが、第1作が圧倒的に優れている。さすが増村保造監督だけはある。とくに成田三樹夫の憲兵役が怜悧冷酷で素晴らしい。日本の映画史上、彼ほど見事に憲兵をやりおおせた俳優はいないだろう。娼妓役の淡路恵子がまた素晴らしい。兵隊を上手にあしらうお姐さんで、「ワカメ酒」という呑み方があることを次郎少年はこの映画で教わった。

たしか「赤い天使」も有馬の原作で映画化されていた。若尾文子主演で前線の看護婦と軍医との話だったが、芦田伸介の出来がいまいちで同じ増村監督の作品とは思えなかった。

見ていると、ノックは的確で上手である。若き日から相当に野球をこなしてきた人だと思える。小説家とはいえ、文弱の徒ではないことが分かる。作品的には直木賞受賞作の「終身未決囚」が面白い。今でも極東裁判の記録映画の中の、大川周明による東條英樹ポカリ・シーンを見るとこの小説を想いだす。

ノックを終えて、ネット裏のやかんを飲みに監督はやって来た。私に気づき、「君は?」と問われる。「経済学部です」とトンチンカンな返事をし、「『遺書配達人』は凄いです」と憧憬の顔で答えた。殿さまはニッコリ笑って、軽い敬礼の会釈を返してくれた。

私が社会人になった翌年、彼の自殺未遂が新聞に大きく報じられていた。

中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)

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