黒い下着
講座を終え、ボブ嬢からお茶に誘われた。
コピー演習のお礼だと云う。銀座四丁目まで歩き、路地の奥のシックな喫茶店に入った。明治時代を思わせる威厳のある珈琲専門店だった。
話題をと考え、映画の話をした。
「ウエスト・サイドもいいけど、同じナタリー・ウッドなら、断然『草原の輝き』がいい。ハイスクール時代の恋が、いろいろな行き違いから実らず、ウォーレン・ビィーティに裏切られたと思っているナタリー。ウォーレンは誤解を解かぬまま、ニューヨークの大学へ行く。ナタリーは精神を病み、郊外の病院に入る。ウォーレンの父は事業に失敗し自殺、彼は大学を辞め、故郷に戻り農業に挑む。ナタリーは病院で同じ心の病の男性から求婚され、彼と生きて行くことを決めるんだ。退院しいったん故郷に戻ったナタリー、ウォーレンも戻っていると聞き、彼の農場を訪ねる。彼は喜び、家族に会ってくれと、妻と幼い長男を紹介する。じきにもう一人生まれるんだと云う。二人は会って心に決着をつける。最後の晴れ晴れとした別れ方がいい。青春はうまくいかない、だけど生きる力はまた草原の輝きのように漲ってくるんだ」
「観たい」「どこかの名画座でまた掛かるだろう」、他にはと云うので、「卒業」の話をする。
「あれは変形のシンデレラ・ストーリー。主役が背も低くダスティン・ホフマンだから成立している。もしあれがウォーレン・ビィーティなら嫌味な映画になってる。びっくりしたのは、『奇跡の人』でサリバン先生を演じたアン・バンクロフトが黒い下着姿で扇情的な女を演じていた。ちょっと僕にはショックだった」
ボブ嬢は今日のお礼はコーヒー一杯では足りないから、こんどの日曜日に食事をご馳走したいと云う。別に予定もなく、断る理由もない。
日曜日の夕刻7時に、吉祥寺駅北口で会う。レストラン「バンビ」まで歩く。ガラス越しに往来から見える席に案内された。赤を飲むか、白にするかと云うので、赤を頼んだ。東京のお嬢さんはワインを飲むのかと感心する。
「ダスティンでまだ他にいい映画はあるの?」
とボブが訊く。
「『真夜中のカーボーイ』がいい。ダスティンとジョン・ボイトの田舎者二人がニューヨークで一旗揚げようと足掻く。僕のこの東京と同じだ。所詮、足掻いても足掻いても堕ちていくだけだ。ダスティンの負け犬さがいい。もう病いで命は幾ばくも無い。彼はフロリダへ行きたいと願う。ボイトはゲイの売春をしながら金を作り、フロリダ行のバスに乗る。ダスティンは太陽輝くフロリダを夢見ながら、バスの中で息を引取る。九州の田舎者にはたまらない映画だった。」
食事も終わり、ボブからもう一軒行かないと誘われたが、飲みなれないワインが胃袋を苦しめていた。気持もダスティンになっており、丁寧に断った。北口まで何か気まずい空気の中を送って行った。改札口を入ったところでボブは振り返った。
「今日は、黒い下着で来たのよ」
と小声で言い捨てると、サッと踵を返した。
以来彼女はもうクボセンには来なかった。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)