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ハットをかざして 第102話

ハットをかざして 第102話

中洲次郎=文 やましたやすよし=イラスト


昭和45年、留年することなく四年に上がった。皆は春休みに大阪万博を見に行ったと昂奮気味に話している。日本中のラジオやテレビから、三波春夫の♪こんにちは こんにちは 世界の国から♪が流れていたが、一向に興味は湧かず鬱々とした日々を過ごしていた。

父から突然、上京の知らせがあった。

幼馴染が、「M」という総合商社の繊維本部長常務をしていると云う。オマエの就職についてお願いすることにしたから、今度の日曜日に自宅を訪ねるとの事だった。マスコミに行きたいのが本音だったが、商社Mなら友にも肩身の狭い思いをすることもなく、心は動いた。

父とは尋常小学校までの同級生で名をHと云った。大分の中学(旧制)へ行き、神戸高商に進み、Mに入社したと聞いた。もともとは繊維が主力の商社とは聞いていたが、この頃は「糸」へん業種はすでに廃れはじめており、「金」へんも厳しい時代に入っていた。万博で景気を煽ってはいたが、いざなぎ景気も翳り始め、大学生の就職は理系はまだしも、文系は厳しい年だった。

当日、東京駅に父を迎えると、一張羅の灰色の背広を着て、紺の無地のネクタイをしていた。商売人だから、父のスーツ姿はあまり見たことはなく、黒の短靴は磨かれてはいたが深い皺が多く刻まれていた。父は手に三本の清酒と自然薯を10本ほど携えて降りてきた。慌てて清酒の荷を持った。
「西の関、八鹿、薫長、故郷の酒が珍しいと思ってな…」
「また山芋かい…」
「東京の人は喜ぶんだよ」

父は彼からの年賀状を持っていた。住所は板橋区四葉となっている。板橋駅に着き、交番で場所を尋ねると、歩くには遠いと云われる。タクシーに乗り、四葉に向かった。着いた辺りは緑多い閑静な高級住宅街で、Hの家はすぐに判明した。大きな平屋の方形の家で、塀は聚楽色、門柱から玄関までに前庭がしつらえてある。飛び石の左右に椿、沈丁花、楓が植えられ、楓の若葉が四月の風に気持ちよさそうにそよいでいる。門柱のインターホンを押そうとすると、父が待てと云う。
「約束より早くお邪魔するのは、先方にも都合があって慌てさせるといけないから…丁度もいかにも構えていたようで悪いから、3時を1、2分過ぎてからお邪魔しよう」私たちは門柱の石段前で15分ほど時間を潰すことにした。
「それにしても立派な家だなぁ…あいつも出世したもんだ…大したもんだ」

と、父はHの家を見上げて独り言ちている。今の我が身との差に一抹の淋しさがよぎっているようだった。

10分ぐらい待った頃、白衣を着た痩躯の初老の男性が横丁から現れ、私たちを怪訝そうに見つめながらインターホンを押した。
「あら、お待ちしてました、どうぞ」

の女性の声がし、彼は家の中へと招きこまれた。父と私は顔を見合わせた。

中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)

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