「うちに入りたいのか」
私の心中は、田舎から長旅の父を虚仮にされており、総合商社Mの幹部の実態を目の当たりにして、その気は失せていた。ただ父の顔もあり、この場は「ええ、まあ…」と、敵意をこめて曖昧に濁した。Hもマッサージ優先で、幼馴染を40分も待たせた弱みからか、「どっちなんだ」とは追及してこなかった。
父は正直に私が肺結核を患っていたことを伝えた。Hは自分も若いころ肋膜を患っていたことを告げ、「もう完治したのか」と問う。
「ええ、もう治療は終わり、病巣は石灰化しています」
「ならば、別に問題はない」
「単位はどのくらい残してるんだい」
「卒論を残すだけで、他は3年間ですべて取りました」
「ほう、『優』はいくつある?」
「23くらいです」
「ほう、『可』は?」
「2つです」
「あとは『良』か。ま、優が20以上あればいいだろう」
いつの間にか奥さんも出てきて、応接の隅で聞いている。Hはショットグラスをあおり、2杯目を手酌で注いだ。
「ところで、うちの社長の息子も、同じ学校だったなぁ」
「はい、同じ学部で1年先輩です」
「ま、人事に履歴書を出しときなさい。確約はできないが、善処するから。うちは東大でもけっこう落ちるんだよ」
父はHを三拝四杯して、家を辞した。
5時近くになっており、町は黄昏はじめていた。
しばらく無言で歩いた。私の胸中には不愉快さが蔓延していた。
「お父さん…僕はM社には行かないよ…」
父は黙って歩いている。
「お父さん、履歴書は出さないからね…」
聞いているのか、聞いていないのか、
「…………………」
父はずっと無言で歩いている。収まりかけていたHへの怒りが再び私の心の中で蘇る。父と肩を並べて、坂を下る。
「お父さんには悪いけど、僕はあの会社には行かない」
強く断定的に話しかけた。
父の横顔が少しほころびたように見えた。
父の歩調が速くなった。
まだ特急「富士」に間に合うから、東京駅へ行くと云う。急ぎ足で国電板橋駅から山手線で向かった。
東京駅で父は弁当とお茶を2つずつ買い、一つずつを私にくれた。やっと、口を開いた。
「ほんとうに…いいんだな…」
「ほんとうに…いいんです。後は、自分でやります」
「好きに、しろ」
父は嬉しそうに、軽く敬礼の手を額の高さに上げて、車中の人となった。
私はいつまでもいつまでも、富士号の後尾を見送った。
私を乳離れさせる赤いテールランプだった。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)