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ハットをかざして 第113話

ハットをかざして 第113話

中洲次郎=文 やましたやすよし=イラスト


単位は3年までにほとんど取り終えていた。残すは卒論のみである。私のゼミは「公認会計士」取得コースである。商法、会計学、財務諸表、税法などが中心の学問である。

母は税理士になってくれればと、念じていた。青色申告だが、なかなかに税務署には苛められたようだ。幼い頃はよく母に連れられて税務署に行った。哀れを催すよう毛玉の多い、肘のすれた、袖口のゆるんだセーターを着せられていた。母は平身低頭で何かを懇願していた。私も肩をすぼめ、淋しい表情でポツネンと座っていた。

会計のゼミに入ったものの、どうも数字はそぐわなかった。煙草に酒、演劇、映画、落語、麻雀の日々で、肺結核になった。母が上京し、教授に挨拶をしてから、教授は心なしか私に目を掛けてくれるようになった。内定の報告にキャンパス奥にある教授棟に向かう。彼は会計学の教授にしては文人肌で、ゼミ合宿などはほとんど文学部的内容だった。

「先生、N社に内定をもらいました」
「ほう、良かった。胸も治ったようだし、めでたいな。お母さんもお喜びだろう」
大量の薬が机上に広げられていた。
「まだインシュリンを射つほどではないが、糖尿病でね」
錠剤数種、粉薬を飄々と飲む。
「先生…卒論ですが…」
「ああ、それは出さなきゃな。皆には『圧縮記帳』あたりを研究するように言っているんだが、君は無理だなぁ」
「はい…せっかく先生のゼミを取らせて頂いたのに…恥ずかしいです…」
肩をすぼめ、身を縮めた。幼い頃に税務署で得た術である。
「うむ、ならば君の書きたいものを書きなさい。何でもいい。但し、原稿用紙百枚以上だ。百枚を物にできれば、最低『可』は上げよう。就職も決まってるしな」

交渉は成立した。小説を書いていたから、百枚はどうという数字ではない。完璧にクリヤーするには120枚を目標に置くことにした。故郷中津の偉人「福沢諭吉」を書くことに決めた。さて、論点をどうするか。

諭吉は「門閥制度は親の仇でござる」と福翁自伝に書いた。つまり江戸期の儒学、朱子学に反発していた。幼い頃は儒学者白石照山の塾に入り、儒学は相当に会得しているが、18歳で長崎へ行き蘭学を勉強する。大阪の緒方洪庵の適塾では、蘭学に磨きを掛ける。江戸に出て直ぐに英語に鞍替えする。咸臨丸で米国、またすぐに欧州諸国を廻り、「西洋事情」を著す。西洋傾倒、儒学排斥も行うが、明治政府からの出仕の要請には乗らなかった。勝海舟には批判的だった。徳川の幕臣でありながら、明治政府の元老院議官となり伯爵まで拝受した。逆に諭吉は奥平藩藩士で徳川の直参まで上がったが筋を通し、新政府へは出仕しなかった。二君に見えずの朱子学的生き方を通した。「西洋かぶれ」と揶揄され、命も狙われたが、本質は儒学の人だった。

この見解で「優」をもらった。

中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)

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