シナリオ教室の担任の先生が決まった。
馬場当(マサル)という松竹大船撮影所組の脚本家だった。服装もお顔立ちも、髪形も眼鏡も実に地味な先生だった。映画界にいらっしゃるにしては極めて風采の上がらないオジサンだった。私は白坂依志夫風の少しキザな時代の寵児のごとき先生に習いたかった。当時、白坂はサングラスをかけ、白の上下を羽織るといったオシャレな男で、企画広告担当サラリーマンの壮絶な日々を描いた「巨人と玩具」(増村保造監督)や、伊藤整の「氾濫」(同監督)、剣豪小説の五味康祐にしては珍しく現代物の「うるさい妹たち」(同)、市川雷蔵を起用しての「好色一代男」(同)はいずれもどこか虚を突いており、深刻でなくユーモラスで面白かった。
反面、馬場はと云えば野田高梧の弟子にしては、家庭の中にあるちょっとした波紋をドラマにするわけではなく、強いて言えば「乾いた花」(篠田正浩監督)が目立つくらいだった。この映画の池部良は「現代人」(渋谷実監督)以来の出来栄えで、ニヒルな世を捨てたヤクザが似合った。加賀まりこもアプレゲールで新鮮だった。
講義は大船脚本部でのお話しが主で、大船だから相当に文学的で家庭的で庶民的と思っていたら、けっこうコメディや軽い物、青春物に言葉を割いた。どこか品がよく、紳士で脂っこくない。私は大映が作る永井荷風物や谷崎潤一郎物などを高く評価していたので、人間のはらわたの中の見えない話だなぁ、と斜に構えていた。
「ドラマとは、女が一人いて、男が二人いて、その女を取り合う。それだけでドラマはできる。但し、時代というか、今が入っていなければ新しくない。夏目漱石の『こころ』のように取り合ったら挙句一人が自殺した。これは明治の話だ。『それから』のように取らせておいて、ずっと気になり世話をするという手もある。が、それも大正の話だ。今の若者ならば何うするのか、そこを取材し、想像し、新しい人間を描かなくてはいけない。すでに人が書いたもの、手あかのついたもの、予定調和なことを決して書いてはいけない。二番煎じが一番いけない。」
この言葉だけは当時のノートに汚い字で走り書きしていた。
講義と実践の教室で、実践は「橋」というテーマで、200字詰原稿用紙に60枚の宿題が出た。横の席の刑事上がりのオジサンは、すでに何やらストーリーの走り書きを始めていた。私は何を書いたものか、脳裏にある過去の橋にまつわるエピソードに思いを巡らせていた。みな、講話を聴くよりも、すでに書く態勢に入ったのか、鉛筆が紙に触れる音がシャワシャワと教室内に立ち始めていた。
「ストーリーを書くんじゃないよ。シナリオだから、登場人物の台詞で著していくんだよ。心を描くんだよ、心は言葉だよ。トリビアリズム(ユニーク、細部に拘ること)でね。」
それだけ言って、その日の講義は終わった。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)