古里の隣家のオジサンは昔慶應義塾の理財科(現・経済学部)を出ていた。
戦時中はM精糖に勤め、満州の新京(現・長春)にいた。引き揚げて来てからは、会社に戻らず、この田舎町で商売をし、家作を人に貸し、家賃地代で高等遊民をしていた。田舎町の三田会(慶応の同窓会)を運営し、私が幼い頃から、
「慶應に行け、慶應に。中津の人間なら、慶應だ」と宣わっていた。
いつも月刊文藝春秋を小脇に抱えて読んでいた。ある日、獅子文六が写真ページに出ており、この人は慶應でルーツは中津の人間だと云う。本名を岩田豊雄と云い、文六の父は金谷町の出だと教えてくれた。NHK朝の連続テレビ小説「娘と私」の原作者で、「大番」という小説も当たり、加東大介主演で映画化もされていた。
私が現役入試で慶應に落ちた時、吉祥寺の大学を推薦してきた。まったく名も知らぬ大学で、一浪しようと思っていたが、願書がまだ間に合うとの事で受けた。受かった。すると現金なもので、浪人する気概は失せていた。オジサン曰く、「まあ、就職は悪くないと思うから、しっかり勉強して『優』をたくさん獲れ」とのアドバイスだった。冬休みに帰省すると「勉強しているか」とオジサンが現れた。
「出来立ての経済学部と聞いたが、マル経(マルクス経済学)か、近経(ケインズ経済学)か」と問う。「近経ですよ、いまどきマル経は無いでしょう」と答えると、立て続けに「経済学部長は誰か」と問う。「木村健康、健康と書いてタケヤスと読みます」と答えると、オジサンは「ああ」と云って絶句した。しばらくして、「いい経済学部長を戴いているな」と感嘆した。
昭和14年、内務省と軍部の圧迫で、東大の学問の自治は阻害され、木村は師である河合栄治郎(自由主義経済学者)と共に大学を去った。河合門下の三羽烏と云われた、大河内一男(後の東大総長)と安井琢磨(後の文化勲章受賞者)は去らず、木村一人、師と運命を共にした。
オジサンは「骨のある信義のある良い男だ。いい大学に入ったな」と褒めて遠くを見た。
休みも終えて、大学に戻り、本館前のキャンパスを図書館棟に向かっている時、木村経済学部長に遭遇した。分厚い体の村風子然とした、見るからに温厚そうなオジサンだった。
「私、武田ゼミの学生ですが…」
「おお、武田さんところの」
「先日、田舎のオジサンから、学部長のお話を聴きました。僭越ですが、凄く褒められていました」
「何の話かな…」
「河合栄治郎先生と、軍や内務省を敵に回し、大学を去られたお話です」
「ああ、そんな古い話を御存知の人がいらっしゃるんだ。あれは、若気の至りですよ」
「いえ、平賀東大総長粛学事件について、少し勉強してみようと思います」
「いや、無駄とは申しませんが、もっと他のことに時間を使いなさい」
と云って、にこやかに微笑み、両手を下げたまま、手首だけをクルクル水平に回して、経済学部棟に戻って行った。
木村先生は福岡市鳥飼生まれで、旧制修猷館中、旧制福岡高卒だった。
木村 健康(きむら たけやす)
1909~1973年 - 福岡市出身
日本の経済学者、東京大学名誉教授、成蹊大学経済学部初代学部長。
<単著・共著・訳書>
青春と自由、経済学ノート、理論経済学の本質と主要内容、
カールマルクスの資本論、自由論学問と教養など、他多数
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)