就職も決まり、卒論も出し、大学4年間の単位はすべて終了していた。
これならば、教職も取っておけばと思ったが、時や遅しである。暇な日々を過ごしていた。小人閑居して不善を成す、麻雀にあけくれ、川上宗薫や宇能鴻一郎の官能小説を読み、まさに不善な日々だった。
ある日、友からバイトをやらないかと持ち掛けられた。この頃、腕が落ちたのか、麻雀の負けが続いていた。週刊大衆の「麻雀放浪記」(阿佐田哲也)は激闘篇に入っていた。私も「坊や哲」同様に肩肘が痛く、以前ほど積込みの技が冴えなかった。積込まなければ確実には勝てない。麻雀は同じ技量の者で囲めば、あとはその日の運否天賦である。
雀荘は大学そばの「武蔵野クラブ」、調子が良ければ近くの尾張屋から「あなご天丼」を取る。不調であれば「たぬきそば」、中庸であれば「カレー南ばん」と決めていた。
アルバイトの話にのった。動きやすい普段着で来いと云うことで、早朝、新宿駅南口の場外馬券場前へ行った。友がいて、仲介のニッカーボッカーに安全靴、革のジャンパーを羽織ったオジサンと話していた。日当3000円に弁当付き、47年前の3000円は今の15000円に相当する。
弁当付きの高収入である。トラックの荷台に10人位の学生が乗り、東久留米あたりのビルの建築現場へ行った。甲の硬い安全靴が渡された。分解されたイントレの鋼管材パーツがあり、それをトラックの荷台から持ち上げ、二階部の男に渡すだけの作業だった。
上へ上への流れ作業で、とび職の兄さんたちが手際よくイントレを組んでいった。要は建築現場の外足場造りだ。何度も何度も何度も、ただ同じ作業を繰り返す。楽な仕事と思っていたが、おびただしい数の鋼管を持ち上げていると、日頃体を鍛えておらず、背骨が悲鳴を上げ始めた。その上、同じ動作を単調に繰り返す仕事に変化も発見も驚きもなく、飽きが来はじめた。
チャップリンの「モダン・タイムス」が頭をよぎる。チャップリンはただボルトを次から次に締めるだけの仕事をしていた。俺には単純な仕事は向かないなぁ、と心で一人言ちながら、友の手前もあり黙々とこなした。
昼の弁当は幕の内の大判だった。中々の味で少し元気を取り戻し、再び5時まで仕事をした。夕刻、来た時のトラックに乗せられて、新宿南口に戻り、三文判を押して、手取り3000円を物にした。中央線で吉祥寺に戻り、直ぐに銭湯へ。さっぱりとしたところで、件の雀荘に顔を出した。
面子はすぐに揃い、配牌もよく、ツキがあり、早い聴牌で上がり続ける。勝ち逃げはできない、今夜は徹マンになるだろうと思い、友に明日は行けないの電話を入れた。単調な仕事は向かない。変化のない仕事はできないと、すでに逃げ腰だった。不善の男である。
我が大学の創設者中村春二先生の言葉を引用したい。
「太陽は東から出て、西に入る。冬が去れば春が来る。昼の次は夜だ。(中略)毎日同じ仕事をすることをつまらぬと思うものは、あわれむべき人だ。」
まだ世間を知らない青二才は仕事の何たるかを何も理解していなかった。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)