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ハットをかざして 第129話 哀愁JAZZ

ハットをかざして 第129話 哀愁JAZZ

中洲次郎=文 やましたやすよし=イラスト


田舎者はJAZZに弱かった。

歌謡曲、演歌、ポピュラー、グループサウンズ、ロックには精通しているつもりだったが、JAZZだけはその知識において東京生まれの同級生に勝てなかった。彼らは中学時代から、兄貴たちや父親に連れられてJAZZ喫茶に出入りしていた。

九州の田舎町といえば、せいぜい喫茶店(サテン)と、ダンスホールくらいで、JAZZの生バンドのある店なんかはない。生といえば、股旅物のドサ廻り一座か、ときにストリップ巡業、年に一回くらいプロレス興行と、サーカスがやってくるくらいだった。東京生まれは羨ましい。歌舞伎も落語も、新劇もクラシックコンサートも、お金さえあれば何でも幼い頃から観ることができた。文化的教養だけは上京組は東京組に追いつかなかった。

「阿部薫のサックスは何か憑きものがついているようで鳥肌が立つね」といった言葉は全くチンプンカンプンでついていけないのだ。ただ卑屈な顔で押し黙っているだけだ。

「よーし、今に追いついてやる」と、しばらくJAZZに集中することにした。「スイングジャーナル」を購読し、油井正一の「ジャズの歴史」や、植草甚一じいさんの「モダン・ジャズの発展|バップから前衛へ」、相倉久人の「モダン・ジャズ鑑賞」などを付け焼刃的に読み漁った。

大学の帰りには「Funky」(吉祥寺)に寄り、夜は井の頭線で渋谷に出て、道玄坂の「B.Y.G」へ、休日は中央線で新宿へ出て、歌舞伎町の「タロー」や、紀伊国屋書店裏の「DUG」、新宿2丁目の「ピットイン」へと足を延ばした。

JAZZ喫茶、JAZZバーはとにかく静かである。皆、目を薄く閉じて、哲学者の表情で瞑想し曲の中に沈潜している。中には巨大なスピーカーに耳を摺り寄せて聴き入っている者もいる。飲み物はおおむねバーボンのストレートかオンザロック、酒に弱い人間はハイボール、煙草はピー缶、ロックの店とは違い、ジージャン、ジーパン姿のハイミナール組はほとんど見かけない。きちんとジャケットを羽織り、どこか知的である。

46年前新宿での夜、あるモダンJAZZトリオのラスト曲となった。イントロはその曲が何とは分からぬように遠く掛け離れたところから始まる。しばらくアトランダムな宇宙音というか深海音が続いた後、やおら美空ひばりの「りんご追分」へとメロディが踏み込んだ。これまで憮然とした寡黙な哲学者たちから一斉に、「ひばりか?」「ひばりだ」「ひばりだな」の囁やきが漏れ、直ぐに歓待の拍手に変わった。いくらJAZZに被れていても、実体はやはり日本人なのである。

若い童顔のジャズマンが、アルトサックスで西田佐知子の「アカシヤの雨がやむとき」を呻くように死に絶えるように吹いた。私は終電の時間もあり、演奏が終わる前に店を出た。外はちょうど新宿通り雨、濡れながら♪このまま死んでしまいたいーと重い足を引きずった。

シャンソンのダミアじゃないが、JAZZにも人を厭世的にさせる魔物と哀愁が潜んでいた。

中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)

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