正直言うとJAZZは難行苦行だった。
とくにモダンJAZZは分かったふりをして、求道者のように聴いていた。大学の帰りに、「Fanky」(吉祥寺)に寄る。JBLのジャイアント・スピーカーが阿吽の如く並び、客を組み敷いている。この店で友人のMにJAZZの手ほどきを受けていた。Mは競馬狂いで、血統書年鑑を常に持ち歩き、出走馬の父母、祖父母、曽祖父母まで遡って、コルトレーンを聴きながら予想を巡らせていた。
「次郎はなにか退屈そうだなぁ」
「うん、スタンダードやバラード、女性ボーカル物は乗って来るんだが、どうもダンモは血の中にないらしく、あまり楽しくはない」
「いまね、女性ボーカルにすごくいい娘がいるんだ、こんど銀座のSwingに連れて行ってやろう。行こう」
世良譲トリオの中央に立ち、スキャットを甘く美しい声で唄う「笠井紀美子」に初めて出会った。年の頃は同世代か、少し向こうが上か、23、4歳に見えた。山猫のような目をしている。輪郭はイタリア女優のクラウディア・カルディナーレ(「誘惑されて捨てられて」主演)を思い起こさせた。まごうことなくセクシーで美人である。
日本の女性ヴォーカルといえば、まだマーサ三宅(当時、大橋巨泉氏夫人)しか知らなかった。阿川泰子はまだ世に出ていなかった。世良さんが40歳手前の頃で、お洒落で素敵な洗練されたトリオだった。この頃、ドラムはジミー竹内だったかと思う。笠井の声は少しハスキーで高音が美しく、ビリー・ホリディほどは掠れていないが、エラ・フィッツジェラルドを彷彿とさせた。
しばらくは、彼女が出るというライブハウスやホールを銀座に六本木に新宿へと追いかけた。美人JAZZシンガー現るとのことで、彼女の名声はうなぎ上りに上がり、雑誌にも特集され始めた。目の周りのメークが徐々に強く濃くなり、ますます美人度に凄みが増していった。日本の歌謡曲、ポピュラー、JAZZ界を眺めても彼女ほどの美貌を持つ歌手はいなかった。歌さえ上手ければ、外見は何うでもよいのだが、彼女を見つけたことで、しばらくJAZZに嵌っていった。
大学の帰りにやはり吉祥寺北口にあるJAZZ喫茶「MEG」にも立ち寄っていた。依然としてダンモにはノリが悪く、当時人気を博し始めたチック・コリアあたりの白人JAZZはイージーリスニングにて心地よかった。駅前のハモニカ横丁で安酒に酔うと、ロック喫茶「赤毛とそばかす」に立ち寄り、キング・クリムゾンやエマーソン・レイク・アンド・パーマー、レッド・ツェッペリンに酔いしれた。70年の暮、サンタナが「ブラック・マジック・ウーマン」を世に問うた。JAZZにはない陶酔と甘美と快感が体を突き抜けた。私の天の守護神だった。
私は徐々にJAZZを離れ、ソウルサウンドへと魂を移行させ始めた。笠井紀美子はソロシンガーとしてますます名声を高め、この翌年の1971年にはマル・ウォルドロンと組むまでになっていた。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)