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ハットをかざして 第131話 娑婆はいやじゃ

ハットをかざして 第131話 娑婆はいやじゃ

中洲次郎=文 やましたやすよし=イラスト


未だ21歳というのに、早く老成したかった。
小学校高学年の時、祖母から「お前は、母ちゃんが堕ろすというのを、私が止めたんだよ」と云われ、「こんな家に、生まれてきたくはなかった」と強く祖母を難詰したことを覚えている。

ずっと暗い子で、芥川龍之介の如く、「漠然とした不安」を胸中に抱いていた。世間を斜交いに見て、呑気に働く人々を睥睨し、その自己嫌悪からか早く歳をとり、向こうの世界へ行きたいと希求していた。娑婆はいやだった。よって若い頃から、もうすぐこの世に訣別する老人たちに憧れた。

歳相応の物は読まず、老人たちの著作を読んでいた。大学も意中の学校へは入れず、人生への曙光は翳り始めていた。身を持ち崩すこと、堕落すること、無頼、フーテンの道を目指したかった。だが、人間なんて一本筋を通して生きていけるものではない。軟弱で蒲柳の男の無頼が笑わせる。3年生が終わるまでにほぼ4年生分の単位は取り終え、いくばくかの「優」も確保し、4年になるや否や就職活動にいそしみ、他愛のない平凡な学生に堕落していた。見栄、似非の親孝行、芯は空洞のご都合主義の日和見主義のノンポリである。

老人たちに憧れたのは、人生の裃が取れて、楽そうだったからである。早く楽になりたかった。
生存競争と云う勝負から直ぐにでも降りたかった。
闘いを終えた老人たちの俳句に救われた。

「生きることやうやう楽し老の春」      富安風生

ああ、歳を経れば本当に競争も終わり、生きることが楽しくまた愉しくなるんだと想像できた。雅号の「風生」、風のように生きるも気に入った。

「何事も知らずと答へ老の春」       高浜虚子

ああ、知ったかぶった時期、虚勢、分別臭さ、すべてが身から離れていく。ただ莞爾とほほ笑んで無言で居られる。いくら本を読もうが人の一生の教養なんぞ大したことはない。早くその境地に達するならば、解脱できると思った。

「だまされてをれば楽しき木瓜の花」     加藤楸邨

騙されたくはないが、騙されることも許せる歳となる。その為には歳をとる、狭量の心の結界がすべて消えて行く。日々、長閑である。

「一介の書生で終り夏衣」          中西舗土

たぶん、概ねの人は「一介の書生」で終わるだろう。良い悟りを開き、良い諦めを持つためにも、早く歳取らねばと思わせてくれた。草莽で終わり、夏はランニングとステテコでブラブラする。いいなぁ。

「少年や六十年後の春の如し」       永田耕衣
ああ、六十年後も少年は春風の中にいる、だろうか。
春風や中洲次郎の居るところ、居れたらいいなぁ、居られるのかなぁ…。

母の胎内から産まれ得ずして、掻把のメスに切り刻まれていたならば、早や涅槃にて蓮華の上に座して、人の世界の斬り合いをせず、ゆっくりと過ごせたものを、生まれてしまった。
厭世の娑婆の日々、多くの先達たちの言葉に救われた。

中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)

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