高校時代に自殺したMの事を思い出していた。彼は高校二年の時、エリート組から脱落した。エリート組とは493人中、文系の1―50番、理系の1―50番の上位者2クラスである。学期ごとの実力テストで一般クラス上位者と入れ替わる。廊下貼り出し100番までだから、自分が下のクラスに行くかどうかはすぐに判明する。進学他校では最下位50人も罰として廊下に名前を貼り出すと聞いた。厳しい受験戦争時代だった。午後二時限が終わると補習が始まる。補習が三時限ある。英語、数学、国語集中である。主要五科目の先生たちのアルバイトでもあった。今はもうできないが、当時、数学と英語の先生は、自宅で塾も開いていた。
Mは廊下貼り出しに名前がなかった。その日、悄然と帰宅し、その夜、縊死(いし)した。翌朝、机の上に一輪の白ゆりが飾られた。校長や教師の説明はほとんどなかった。父兄会があり、母に聞くと、「成績が伸びなかったんやろうね」と言った。Mのおかげで、「死ぬくらいなら、ほどほどで良い」とも言われた。私はこの言葉に安住し、エリート組の底辺をさ迷いながら、下にギリギリ落ちはしなかった。されども、成績の伸びない苦しさはいつも圧し掛かり、先に逝ったMを時々、羨むようになっていた。
一人問答をした。
「お前はいいよな、楽になったよな、俺なんか、死ぬ度胸もないし、かといって、死ぬ気で勉強もできない、もう微積分からは一向にチンプンカンプン、習っても習っても、その理屈が分からない。お前は降りて、楽になったよな。俺も降りたいよ…」
そんな、独り言をいつも反芻していた。この世は面白くない、親や先生たちが「今の努力は必ずいつか実を結ぶ」「今やらねばいつできる」と励ますが、頭のいい奴らはより努力している。5時間睡眠にして頑張っても、彼等は3時間睡眠で頑張ってくる。永久に追いつくわけがない。
いろいろな言葉に逃げた。自分を救いたかった。精神の平衡を保ちたかった。
誰の言葉だったか、「人生に敗者復活はあり」。人生は行った大学で将来のすべてが決まると云われてきた。理系の人間は皆、医者を狙っていた。医者になれば生涯がほぼ安定だからだろう。次に歯医者、そしてエンジニアである。文系は国家公務員上級職、外交官試験、弁護士、そこから逆算すればおのずから狙う大学は絞られていく。すべて難関大学ばかりだった。そこを落ちれば落伍者、一生、敗者復活はないと思っていた。
すがった座右の銘は数多ある。
「人生はすでに過失である」「世は一局の碁なりけり」「死んで花実が咲くものか」「ケセラセラ」「五風十雨」「所詮シャバのことだ」「裸で生れて来たに何不足」「遊びせんとや生まれけむ」「電光影裏春風を斬る」、いろいろな言葉に逃げた。いつもいつも暗く悩んでいた。みんな悩んで大きくなったと思う。
こうやって22歳、就職も決まり、社会に出る直前ともなると、悩むことも面倒くさくなってきた。どうせいつかはシャレコウベ、だ。もう少し、生きてみることにした。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)