細い雨が降っていた。
肺結核の検診に阿佐ヶ谷へ行った。
駅の北口を下りて、右に進むと河北病院という大きなホスピタルがあった。院長先生が大学の校医で、3年生最初の検診で私の結核を見つけてくれた。
以来、丸一年で微熱も寝汗も、咳も痰も抑えてくれた。パスとヒドラジッドを飲み続け、週に二回、臀筋にストレプトマイシンを射ち込んだ。最初はお尻を若い看護婦さんにさらすのが恥ずかしくて、二の腕の筋肉に射っていたが、あまりに注射痕が何日もうずくので、ついに彼女の勧めに従ってお尻に射つことにした。パンツを必要以上に下げるので、恥ずかしさもあったが、それも次第に慣れていった。射った後、しばらく臀筋を揉んでくれるのが快感でもあった。
その日は断層写真を6枚も撮った。イルフォードの写りの良いフィルムである。血を取る。血沈検査用である。尿を取る。尿中の白血球を調べるのである。河北先生からの問診があった。
「発熱は?」
「もう37度台は、ありません」
「寝汗は?」
「とくにかきません」
「睡眠はよくとれている?」
「はい、よく眠れています」
「体重は、増えたねぇ」
「はい、発病前は62キロ、発症したころは57キロまで落ちましたが、今は太り過ぎで68キロもあります」
「そのくらいはあっていいだろう」
「タバコは?」
「吸っていません」
フィルムを電光板に挟んで、先生は読影を始めた。
「深層部まですべて石灰化したね、完治だ。もう今日を最後に通院は終わりだな。おめでとう」
ラグビーで鍛えた、体の分厚い先生がニッコリとほほ笑んだ。
「最後の忠告だが、タバコは吸わぬよう。それから、60歳を越えたら、再発があるかもしれないから、気をつけてな」
大映女優の江波杏子に似た看護婦さんも「良かったですね」とハスキーな声で囁いた。
病院を出ると、まるでシャバに出た気分だった。よく丸2年もここへ通ったものだ。先生の「入院せずに、治してやる」の力強い言葉を思い出していた。
まずタバコ屋へ寄り、ハイライトを買った。火をつけて深く吸うと、立ち眩みが起こった。初めてストマイを射った時よりも激しいめまいだった。しばらく路傍に座り込んだ。すぐ横をオレンジ色の中央線が行き来している。
一時は死を考えたこともあった。別に死ぬことは怖くはなかった。切れぬ痰を吐ききれない時の苦しさを思い出した。窒息死は嫌だなと思った記憶がある。独特のひだるさ、倦怠感も薄れていた。
座り込んだまま、もう一本、火をつけた。細い雨はいつしか止んでおり、見上げると冬の虹が出ていた。
生きててよかった。二本目は味がした。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)