入社して数か月、いまだ我ら新人は無聊をかこっていた。晴海の見本市会場でイベントがあれば、それでも見てきなさいと送り出される。モーターショー、エレクトロニクスショー、ビジネスショー、ペーパーバッグに各企業のパンフレットやチラシを集めて帰り、中のコピーを勉強するのである。
何も働いてないのに、6月の終わりにはボーナスを頂いた。1万円入っていた。今の価値に換算すれば5万円くらいか。すぐに田舎の母に初賞与を封筒のまま送った。母に電話で「働いてもいないのに貰ったんよ」と伝えると、「いい会社じゃなぁ」と感嘆してくれた。ボーナス後からは仕事をさせられるだろうと意気込んだが、まだ茫洋とした日々だった。ある日室長から、「そんなに暇なら、この頃自分が気に入ったキャッチフレーズを選抜し、それのどこが何ういいのか、各自レポートに纏めなさい」の指示が出た。
ちょうど当時は「ビール戦争」に入っていた。1970年3月からサッポロビールは三船敏郎を起用して、「男は黙ってサッポロビール」というキャッチで市場を攻めていた。三船自身、黒沢明監督から離れ、「黒部の太陽」を石原裕次郎と共にヒットさせ、「世界のミフネ」と国際的俳優にまで名声を高めていた。キャッチの書体は筆文字で太く描かれている。三船の写真の表情はちょっと陰鬱で孤独感がある。モーレツから少し草臥(くたび)れ始めた日本のお父さんたちの心模様を代弁しているかのようであった。この世代は幼い頃より、「男はペラペラ喋るな」と育てられた世代である。苦み走った三船の顔はサッポロビールの苦さをも表現していた。感じるキャッチフレーズだった。
同年6月、キリンビールが岸田今日子と仲谷昇夫妻を使って、「どういうわけかキリンです。どういうわけか夫婦です。」のキャッチで市場を攻めてきた。夫婦で家の中で飲もうというのだから、市場の拡大は大きい。接待で一人酔っぱらって帰って来る夫だけの市場より、夜は夫婦で、土日も夫婦でだから、奥様方もキリンファンとなった。新市場を作ると云った、きちんとしたマーケティングに裏打ちされた作戦だった。
1971年8月、アサヒビールは高倉健を起用し、「飲んで貰います!」のキャッチで、満を持して市場を攻めてきた。三船が中高年男性狙い、キリンは夫婦家庭内需要、アサヒは最も「ケンさん」に反応する20歳代と団塊の世代を攻めてきた。団塊の高校一年くらいに「網走番外地」シリーズは始まった。日本の若者はそのタイトル曲を口ずさんだ。すぐに「昭和残侠伝」シリーズも始まった。ご存知「花田秀次郎」である。「唐獅子牡丹」というタイトル曲は全共闘を中心に日本中でヒットした。「飲んで貰います!」というキャッチは、シリーズ第6弾「死んで貰います」のパロディだった。
3社ともに大成功のキャンペーンだったが、私は「男は黙って」のキャッチを最も評価した。男の哀愁と腹にすべてを納め込んで生きている男の辛さがあったからだ。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)