
農民は、衣服いっさい木綿。染抜き鹿の子絞り・あかね更紗染めなど、男女ともいっさい禁止。女性は指櫛で、木櫛は不可。こうがいも銀製・彫物は不可。
右は黒田藩の御触れです。昔々は、農業が国のもとで、農民も名字帯刀でした。士農工商の世になって、農民以下許可なしでの苗字帯刀は禁止になりました。農業は完備されたインフラとして、為政者にとっては水や空気のような存在になりました。あってあたりまえ、というわけです。テレビも最初は三種の神器で床の間に飾ったけれど、普及がすすんだいま、どこにでも置いていますね。禁制も現金納税の町人より厳しくなりました。
住居に関しても、いろんな御触れがだされています。
将軍吉宗のころ、天文五年の黒田藩の御触れ―福岡城下六丁筋※にあたる家々は白壁・瓦葺きにせよ。火事で福岡城下の町並みがみすぼらしくなっていたんです。改築資金は藩が貸しました。無利子で五年年賦、営業税も減じるという特例です。反面、魚・鳥・野菜・煮売り・結髪など日用の店は、2か月で裏通りへ引っ込めと命じています。表通りは呉服商売※などにしろということです。
また、唐人町から博多の官内町までの唐津街道沿いは、税金を下げるからりっぱにせよと命じています。参勤交代の街道筋は見栄えよく、というわけです。それ以外の町家は、太閤町割り以来の、板葺き・板壁あるいは荒壁が規則でした。
そのうえ、博多の呉服商売は二ヶ月で廃業せよ、呉服商そのほか何業でも福岡へくるものは勝手次第と命じています。つまり博多商人に福岡へ来いという強制です。博多商人はいうことをきかなかったもんで、黒田さんたら博多の呉服商の税率を引上げました。
102年後の天保13年の御触れは、宿場以外の郡部農家は瓦葺き禁止というものでした。
別の御触れでは、庄屋が町家のまねをして床の間をつくり、漆塗りをやるから、一般の農家までまねしている。禁止!です。
翌天保14年の御触れ―町人の家は去年も通達したが、公儀から御達しがあったので、以下を改めよ。門・玄関の禁止。床かまち・落とし掛け・戸障子など建具の漆塗り禁止。春慶塗は検討中につき、そのままでよい。付け書院・違い棚・欄間の組み物や彫物も禁止。さび土塗りの壁・襖や壁に金銀の紙、金銀の砂子を使用することも禁止。いやはや。
でもこれって逆に考えると、農民や町人が武家のいうことをきかなかったということです。天保14年ったら、黒船来航の10年前。な~んだ、武家社会たらもう崩壊しはじめていたんじゃん。
※六丁筋…簀子町・大工町・西町・本町・上名島町・下 名島町のこと。福岡城前の下の橋から上の橋付近 まで、昭和通り沿い。
※呉服商売…着物屋さんだけでなく、呉服関連の商 い。古着商もリサイクル社会の江戸時代では、表通 りに店を出した。
資料:「黒田家譜」(福岡市教育委員会「福岡市の町家」所収)