150年前、1864年誕生の音さんは対馬小路中(つましょうじなか)(1 の生れ。山笠では大黒流(ながれ)でした。
その年大黒流は四番山。当番町は古門戸町で山の表題は「豊公遺粮策(2 」。元日生れの音さんは生後半年、父親専蔵さんに抱かれて山の風に吹かれたでしょう。ちなみに山笠の直後には禁門の変が勃発、平野国臣(3 が処刑されたりして風雲急を告げる時節でした。
翌1865年の正月は、音さん初めての松囃子なのに、藩の達しで中止(4 。寂しい正月です。
この年は音さんの町、対馬小路中が三番山の当番町で、表題は「神仙遊戯」。満1歳半の音さん、口をあんぐり開いて山笠を見上げたことでしょう。この年、勤皇派で筑前今様黒田節をつくった加藤司書が切腹しています。また、太宰府に下向していた勤皇の五卿は、「(福岡藩の)俗論又勢いを得候模様(えそうろうもよう)ニ付(つき)、篤(とく)と情実取糾(とりただし)ノ為」6月11日の朝9時頃博多に着いて東町の豊後屋与平方に投宿(5 、山笠を見物しています。
翌1866年、大黒流は能当番で麹屋番が当番町。父専蔵さんは鼓の名手、櫛田の能舞台に出たかもしれません。
翌年は洲崎町中が当番で四番山「邯鄲(かんたん)一夢榮」。この年は高杉晋作によって配流の姫島から救出された野村望東尼が11月に62歳で没。そして12月9日、王政復古。
明治元年は三番山「源家栄盛兆」当番妙楽寺町。明治2年二番山「神国復古巧」当番洲崎町上。明治3年一番山「橋弁慶」当番掛町。山笠の直後に福岡藩の紙幣偽造事件がおきて黒田公は藩知事解任。
明治4年六番山「竹生嶋」当番対馬小路下。明治5年五番山「双珠光国瑞」当番新川端町下。音さんは満8歳になりました。
この年までの山笠の高さは地上16メートル(約53尺)あったのが、翌年から松囃子とともに山笠は禁止になってしまいます。
明治6年6月16日嘉麻・穂波に起きた竹槍騒動で福博は震撼。
博多はずっと山笠再興願いを出し続け、明治8年ようやく許可が下りたものの、それが6月13日(6 午後5時。大あわてで山をこしらえましたが、どの山も人形は一つだけ、岩・波・屋形も衣裳もないゆかた山でした。
音さんの大黒流は五番山「官許土俗歓」当番芥屋町。音さん11歳。翌年からまた不許可で16年になってようやく許可されました。
その間明治10年には電信線がはじめて架設され、復活しても山笠は低くつくるしかなくなりました。
ところで、13歳の音さんは10年に家出して東京へいったんです。もしかしたら、山笠のない博多が面白くなくて飛び出したのかもしれませんね。
資料:落石栄吉「博多祗園山笠史談」
井上精三「どんたく・山笠・放生会」「博多郷土史事典」
1) 対馬小路中 明治9年、町名の下につけた上中下を町名の上につけるよう変更され対馬小路中は中対馬小路と変更。また竹若番なども竹若町に変名。
2) 豊公遺粮策 「ほうこういりょうのさく」と読むか。豊臣秀吉が粮を残す策。粮は糧と同じで、穀物。兵糧の意味なら昔は乾飯(ほしいい)。内容は不明。
3) 平野国臣 福岡藩出身の勤皇志士。生野の変で捕縛され、翌1864(元治元年)7月20日の蛤御門の変の時奉行の独断で他の志士と共に獄中で斬首。37歳。
4) 松囃子の中止 「当節柄、松囃子被相止候事」また、「男女子被(?)破魔弓・羽子板・餅花遺(遣ヵ)取りを初め飾方等無用候事」との御触達が前年十二月二十日筑前全域に出された。
5) 土方久元「回天実記」
6) 6月13日 現在の追い山は7月15日だが、昔は旧暦6月15日催行。太陽暦での山笠は明治20年6月からでこの年は旧暦4月だった。24年には旧に戻した。
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