9月の東京湾に船を浮かべ、築地の海岸から大航海に乗り出したのはいわずと知れた川上音二郎です。小艇、短艇、スクネルといわれた船には恋女房の貞と姪のシゲ、犬のフクも同船です。この同行者にしても、新聞各紙は姪ではなく、妾だとか下女だとか書きたい放題でした。
この音さん大航海事件の一番早い報道は都新聞のようで、明治31年9月14日に「川上音二郎は南洋探検を思い立ち、昨今房総近海を試航中なりと」と書いています。翌日には「川上の漂流」と題して、「二間半ばかりなる小船に三四名の男女乗り組み、風に揺られつつ横須賀軍港に入り停泊せしより軍港部において取り調べ…」(今風に改文。以下同)と長文の記事を掲載。
太平洋を横断してアメリカへ渡航しようと築地海岸から出帆して横浜で一泊、翌日出発したけれど観音崎で波風が強く、軍港と知らずに寄港したと伝えています。
「8月27日付の清韓英仏独米諸国漫遊の海外旅行免状(パスポート)を所持」し、「米1俵にわずかばかりの醤油乾し肉」を用意していたとか。
同日の毎日新聞は「不完全極まる一丁櫓の木っ端」「正気の沙汰なりとせば多分借金逃れに仕組たる狂言か左なくば虚名を売らんがため…この男の米国漫遊もイヤハヤ久しいものなり」
米国漫遊というのは、アメリカの万博などに金子堅太郎さんと一緒に行く予定などの報道が何度かあるんです。
さて、16日の東京朝日になると、ようやく「先年ある貴族より譲り受けし長さ三間余、幅八尺ばかりの西洋スクネル形(甲板の下に住居の部屋あり)の小船」と、それがスクーナー型のヨットであることを報道しています。のちに音さんは房総沖で航海練習をしたと語っています。
貞さんの菩提寺貞照寺の、貞さんの半生をレリーフにした木彫り八枚の中にも、この航海中アシカの大群に襲われる場面があって、船が描かれています。よくみるとキャビンの屋根がちゃんとあるんですね。絵師や彫師がもう少し西洋のことに詳しければこの構図は変わっていたはずです。貞照寺の建立は昭和8年なんですけどね。
さて、横須賀軍港で夫婦だけならとシゲとフクを下し、音貞コンビは無謀といわれた観音崎はおろか、遠州灘、熊野灘も乗り切って翌年1月6日神戸へ無事、とはいかずふたりとも「ぶくぶくと水腫れに太りて見る影もなくやつれおる由なるが、上陸ののち海岸通りの西村旅店に投宿」(毎日1月10日付)したのでした。
それから5月2日には、横浜からゲーリック号に乗り込んで、川上一座は第一次ワールドツアーに出発したのでした。
資料:白川宣力編著
「川上音二郎・貞奴 新聞にみる人物像」雄松堂
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