
3月は別れの季節、博多に心を残しつつ転勤される方も多いことでしょうね。
昭和2年のこと、駐日フランス大使だったポール・クローデル*1も、日本文化を満喫したのち、次の任地アメリカへ旅立ちました。
離日に際し、彼は日本の友人知人に「雉橋集きじばし」と名づけた詩画集を贈りました。扇面の作品36組で、クローデル自身が書いた短詩(フランス語で毛筆文字!)に、日本画家富田渓仙(博多出身!)が絵を添えています。日本趣味でお洒落な記念品だこと、トレビアン!
クローデルは外交官ですが、ジャポニスムの芸術家でもありました。そう、ポール・クローデルは、カミーユ・クローデルの弟なんです。天才的な女性彫刻家*2カミーユは、18歳でオーギュスト・ロダンの弟子となり、ロダンの代表作「カレーの市民」の一部などはカミーユの作であるともいわれます。二人は愛しあうようになりました。
1900年のパリ万博で、カミーユは川上一座の舞台をロダンとともに何度も見たはずです。そこには愛に狂う芸者を演じる貞奴の姿がありました。ロダンはいいます。
「貞奴を侮る人に言いたい。もう一度貞奴を御覧なさい。よく御覧なさい!*3」
カミーユは弟ポールに、ロダンと同様の感想を熱く語ったはずです。「姉のカミーユが日本の芸術を熱烈に愛好しており、彼(ポール)もその影響を受けていた*4」んです。
万博の主役となった貞奴の舞台は、ロダンとカミーユの愛の行く末を暗示しているかのようです。15年にわたる年齢差24歳の愛は、ロダンが内妻のもとに帰ることで破れ、カミーユの心も壊れました。イザベル・アジャーニの映画「カミーユ・クローデル」をごらんになりましたか。
ロダンは貞奴と音二郎にモデルの依頼をします。二人はロダンの名声を知らなかったのでモデルを断わり、帰国しました。川上一座のプロデュースで大儲けしたロイ・フラー*5は、かわりの芝居一座をみつけました。
座長は川上一座と入れ替わりに1902年渡欧した花子です。1906年、マルセイユで花子はロダンに出会い、請われてモデルになりました。ロダン作「花子像」には苦悩や放心の表情があります。それは貞奴の舞台の記憶、またカミーユとの愛の苦悩が重ねられているかのようです。
雉橋集に絵をそえた富田渓仙ですが、ポールは渓仙が音二郎と同じ博多出身ということで、特別な親しみを感じたのではないでしょうか。もっと調べてみたいところです。
ポールは日仏会館の設立に尽力するなど日仏友好につとめました。福岡にも来て九大で学生たちに講演をしています*6。1955年83歳で没し、ノートルダム寺院で国葬に付されました。
*1駐日フランス大使…ポールの任期は大正10年11月から昭和2年2月まで。途中1年間休暇帰国。ポールは日本に行きたいために外交官になったとも言う。
*2女性彫刻家…当時女性の芸術家はほとんど存在しない。同時代の高村光太郎はロダンに傾倒した。その妻智恵子とカミーユの苦悩には共通するものもありそうだ。
*3ロダンの言葉…「ロダンの言葉抄」(童門冬二「川上貞奴」成美堂出版より)
*4姉の影響…ポール・クローデル「孤独な帝国日本の一九二〇年代」の編者リュシル・ガルバニャティの序文。(奈良道子訳・草思社)
*5ロイ・フラー…アメリカの女性ダンサー。川上一座は万博会場のフラー専用劇場に出演した。フラーは一座の興行主となったが、どういう経緯だったかは未詳。
*6ポールの来福…大正13年11月29日まで15日間の九州旅行中に来福。九大を視察した大使は初。日本では医学などに独語が使用され、仏語が劣勢であることを本国に報告している。(同右書)