夜もふけて突然訪ねて来た男に、歓迎の笑みを向けられるわけがありません。「取材ね? 今からね?」。玄関口に立つオヤジさんは、不審そうに眉をひそめました。
1992年5月26日。甲子園球場でのナイターで、まだ20歳の息子さんがプロ初スタメンの第1打席にプロ初本塁打を放ちました。ただ、記念のアーチが飛び出したのは試合の序盤なのに、いいかげんな上司から「家族を取材してきて」との指令を受けたのは試合が終わってから。福岡市南区にある実家を突撃したのは22時ちかくです。居間に通してはくれたものの、オヤジさんの受け答えはこの上なくぶっきらぼうでした。
ところが、そんな不機嫌モードが一発で大逆転します。「あれはすごかったですね」と話題に上げたのは、息子さんが高校3年の夏の福岡県大会、大牟田延命球場で放った強烈な一撃。三塁手が手を伸ばすほどの低い弾丸ライナーが、失速することなくそのまま左翼席に突き刺さったのです。
「そうね、あれば見とったとね」と目を輝かせて身を乗り出したオヤジさん。「でも、もう1本、すごかったとがあるとよ。そっちは見とらんやろ? 俺は見たばい」と自慢げです。そこから先はガハハ、ガハハと笑い合いながらの取材。「お父さん、ホームラン1本ごとに小遣い1万円をやりよったでしょ」と問えば「そげんとこまで見られとったかー」と大喜びです。帰り際には「これば持って帰らんね」とビールをケースごと押しつけられました。
実はその3年前、ドラフト会議の当日にはオヤジさんに怒鳴られました。阪神からの5位指名。プロ野球選手になるという親子の悲願がかなっためでたい日かと思ったら、「息子が落ち込んどるやないか! どげんしてくれるんか!」と怒声が止りません。
暗黒時代まっただ中のダメ虎からの指名がショックだったわけではありません。「おまえらがあんまり〝良か、良か〟て書くけんたい!」。事前報道で上位指名も期待したのに、5位という現実に息子さんの自信がぐらついたというのです。
結局、オヤジさんから「入ってからが勝負。指名順位は関係ない」と説得された息子さんは、あっさり気持ちを切り替えてプロ入り。その後は類いまれな身体能力に自由奔放、奇想天外な言動も相まってスターへの道を突き進みました。
「息子さん」とは、日本ハムの新庄剛志監督。「オヤジさん」とは、2011年に他界した父・英敏さん。その采配にも見えるユニークな感性は、こりゃもう父譲りでしょう。
1989年のドラフト会議当日、父・英敏さん(左)と新庄剛志選手
文 富永博嗣
西日本新聞社で30数年間、スポーツ報道に携わる。ホークスなどプロ野球球団のほか様々な競技を取材。2023年3月に定年を迎え、現在は脳活新聞編集長。