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長谷川法世のはかた宣言81・島井宗室

長谷川法世のはかた宣言81・島井宗室


 いまを去ること30年の昔、『島井宗室』※1という本を読んだ。書名でわかるとおり博多商人島井宗室※2の伝記だ。読んでびっくりしたのは、島井宗室があの「本能寺の変」のとき寺に泊まっていたということだ。 

 その理由が、織田信長との顔合わせのためだったというのだから二度びっくり。いや、本能寺の変の前日には信長主催の大茶会があって、信長は所蔵茶器の大半を安土城から運んできていた。そもそもその茶会からして島井宗室との対面のためであったというから、びっくり三回だった。

 博多三傑※3といって、宗室は神屋宗湛※4・大賀宗伯※5と並んで博多の三大商人にかぞえられている。大商人宗室の記録を上掲本から引用してみよう。

 永祿11年「二月上旬永寿丸で朝鮮に渡海、同下旬に釜山浦着岸、三月中旬に京畿道に行き、オランカイ(兀良哈、満州の間島地方)からの諸品を悉皆買取って、五月四日に博多に帰着、六月五日永寿丸で大坂表へ荷物を積み登せ、七月二十三日に帰着、この時は商売の利潤があり気味よく覚えた。船頭・水夫にも褒美として銀子を与えた。」68頁

 天正七年「六月五日博多を出帆して翌六日に対馬に着いた。この時は朝鮮に渡る心組であったが府中(厳原)に南蛮の商品が数多くあり、朝鮮の商館で買うよりも安いのでこれを購入し、二十一日にめでたく帰着した。ところが亜鉛が日本では払底していたので、大坂表へ積送って売払ったところ、おびただしい利益があった。」69頁

 以上、本能寺の変もふくめ宗室の動きは実は、島井家に伝わる『島井宗室日記』がもとになっている。ほかにも、信長亡きあと大友宗麟が宗室を頼り、秀吉が宗室・神屋宗湛を重用したことなどが紹介されている。ああ、著者の瞳に乾杯!ところが(暗転)、禍福はあざなえる縄の如し、直後に著者田中健夫氏はつぎのような史料批判を展開する。

「『島井宗室日記』は…後世の編纂物で、特に年代などは信用できない部分が多い。ここに引いた文章でも、「大坂表」などという言葉があり、果して、永祿十一年・元亀元年※6・天正七年という時点で正確にこのような出来事があったのかどうかは極めて疑わしい。」70頁

 う~~む、これはちょっと読み捨てにできない。まえに中山平次郎博士の「博多場末論」を追求したように、ここも何かいわなくっちゃ。ところで、田中健夫氏は東京帝大卒の東大教授なんだよドキドキドキ。

※1)『島井宗室』…田中健夫著・吉川弘文館人物叢書・新装第1刷昭和61年
※2)島井宗室…1539—1615。堺商人と交わり年下の神屋宗湛とともに信長・秀吉の知遇を得る。朝鮮出兵には批判的で秀吉から遠ざけられたとされる。都市高速呉服町ランプを降りた左に屋敷跡の石碑がある。
※3)博多三傑…博多町人文化連盟の博多町人文化勲章(西島伊三雄デザイン)は三傑の博多人形レリーフ
※4)神屋宗湛…1553—1635。新技術で石見銀山を開発した神屋寿貞の孫。博多町割のとき秀吉のそばにいた。
※5)大賀宗伯…父宗九と海外に渡りマカオで商売。寛永7年博多に戻る。廃藩まで博多町人格式の最高位「大賀格」。(三傑プロフィールは『博多郷土史辞典』より)
※6)元亀元年…(大坂表がないので本文では割愛した)壱岐の…勝本から諸品を積送り…荷役代料勘定銀二十貫八百目を船頭栄助に渡し…泉州堺アカネ屋太郎右衛門方へ…荷物を送った。郡山の和泉屋慶助へ…近国の武士方へ売りさばくように依頼し、土産として博多産の唐織一反を送った

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