
江戸時代、追い山の前日から、水車をまわして見物させ、お茶飲ませ、見物料とった博多商人がいた。
追い山オールナイト営業は、映画館とパチンコ店が最初とおもっていたのに、263年前の宝暦5年(1755)が最初だった。さすが商魂たくましい博多商人、といいたいところだけど、この商人は奉行にお目玉を食らった。『博多津要録』にのってるんだ。(誤読御免)
油屋市右衛門祇園会(あぶらやいちえもんぎおんえ)に水車見(すいしゃみ)せ銭取(ぜにと)り申事(もうすこと)
宝暦(ほうれき)5乙亥(きのとい)歳6月23日
一 いわし町上(かみ)、油屋市右衛門、15日祇園御祭礼につき、14日の夜15日にかけ、通りの者水車見せ茶を売ると1人より銭2文ずつ見物の者より取り候趣相聞(そうろうおもむきあいき)こえ、その筋(すじ)よろしからず、これにより禁足(きんそく)※1仰(おお)せつけられ候、もちろん水車もお留(と)めなしおかれ、しかるところ御詮議(せんぎ)のうえ、今日御呵(おしかり)※2にて禁足滞りなく御免(ごめん)仰せられ候こと、亥の6月28日
ところでこの水車にちなんだ「水車橋(みずぐるまばし)※3」が江戸時代にあって、今もある。上川端商店街をキャナル方向へ出ると、つき当りにふくや川端店、左に櫛田の焼き餅屋さんのある櫛田神社南門、右に曲がると水車橋にでる。タクシーの運転手さんでも大半がすいしゃ橋というけれど、銘板には「みずぐるまはし」とかいてある。山笠の土居流(どいながれ)では順路に入っているのでみんなしっている。
博多山笠は櫛田神社に向けて山小屋を建てる。だから南北縦筋(たてすじ)の山は南を向いている。上新川端町(かみしんかわばたまち)※4が当番の年の山も南向きなので、舁き出しは毎日必ず水車橋(みずぐるまばし)へでる。山を北向きにかえるためだ。ちなみに昭和26年、戦後はじめての土居流の順路をみてみよう。山小屋の位置※5は当番「上新川端町中央部」になっている。
「七月十日流舁(ながれがき) 午後六時※6舁出(かきだし) 山小屋より上新(かみしん)川端町を上り、櫛田神社裏に至り、水車橋方向に入れて向を変へ、同町を下り…」(『山笠記録簿※7』第壱号)
流の域内を舁きまわるのが流舁。上新が当番のときは、舁き出しは毎日必ず右の順路になる。そうしないと山が後ろ向きに走りはじめてしまう。櫛田南門下までいって、一旦止まって肩を替えて※8、バックして…※9
あ、テーマは宝暦5年の「水車見せ銭取り」事件だった。この事件、博多商人が金欲しさに無許可営業をやって御奉行から叱られた、という笑い話のようにみえるが、実はやむにやまれぬ事情があったようなのだ。
つづく
※1)禁足…外出禁止処分。武家は門があるので閉門。門を作ってはいけない庶民は禁足、かな。
※2)御呵…江戸時代庶民に対する最も軽い刑。やや重い刑は、屹度呵(急度呵=きっとしかり)
※3)水車橋…三奈木黒田家の福博古図(1812年)に水車橋(名は無記名)があり、傍らに「水車今ハナシ」と書き込みがある。当然1本の橋だったが、現在はV字型で実質2本の不思議な形(S45竣工)。こんな橋は無いんでないかい?そだね~
※4)上新川端町…上川端町の旧町名(現上川端商店街と周辺)。略称上新(かみしん)。土居流他では祭りのとき旧町名をつかう。今年の土居流中山総務は我が同級生。
※5)山小屋の位置…山の位置は輪番の当番町内なので毎年変わる。上新は諸事情で熊本銀行前
※6)午後六時…「参考事項二、昭和二十六年度は「サンマータイム」(ママ)実施中に付舁出時刻等に付為念申添ふ」(『山笠記録簿』)。サマータイムは翌年から廃止で午後5時舁出(現在も同じ)。
※7)山笠記録簿…戦前の記録が空襲で焼失したためS26~39土居流の記録。(『土居流山記録簿付録』収録)
※8)肩を替えて…担いでいた肩を反対の肩に替えること。後ろを向くことになる。2度肩を替えるともとの表向きになる
※9)バックして…(つづき)水車橋際までいって止まり、再度肩を替えて山を表向きにして上新に入る、というスイッチバック式の方向転換を行うのだ。