
『枕の草紙』の清少納言※1に、兄がいたとはしらなかった。兄は清原致信(きよはらのむねのぶ)※2という。母親ちがいで年もずいぶん離れていたらしい。でも前大宰少監(さきのだざいのしょうげん)※3という、もと大宰府のお役人だったと知ると、妹の清少納言にまで急に親近感がわく。たったいままで、清少納言⇨枕草子⇨古文試験⇨赤点、という不合格記号体だったのが、突然、「少納言ちゃ~ん、元気ぃ~?」となつきたくなってしまうよねえ(個人の感想です)。
さて、兄致信の記録は二、三のわずかなものしか残っていない。それも寛仁元年(1017)3月8日に京で発生した殺人事件の被害者としての記録だけなのだ。藤原道長は事件の三日後三月十一日に、二男の頼宗(よりむね)※4から報告を受けたことを日記※5に書いている。
「行幸(ぎょうこう)の行われていた日の申剋(さるのこく)の頃、〈平安京の〉六角小路(ろっかくこうじ)と富小路(とみのこうじ)の交差する辺りにございます小宅に、清原致信(きよはらのむねのぶ)と云(い)う者がおりました。この者は〈藤原(ふじわら)〉保昌(やすまさ)※6朝臣(あそん)の郎等(ろうどう)です。ところが、乗馬の兵七、八騎と歩兵十余人ほどが来て、その小宅を囲み、致信を殺害してしまいました。」
行幸とは、後一条天皇の石清水八幡宮参詣のこと。行幸の行列は事件当日の巳剋(みのこく)(午前10時頃)に内裏(だいり)を出発した。そのころから雨になったと道長は記す。事件は申剋の頃(午後4時頃)だから、行幸で京の警備が手薄になるのを知ってのこととも考えられる。旧暦3月の午後4時頃で雨といえばけっこう暗かったかもしれない。けれど、兵というからには、戦支度(いくさじたく)の騎馬と歩兵の約二十人が、京の都で堂々と合戦におよんだようなものだ。
頼宗は検非違使(けびいし)の日記(記録)を道長に見せた。兵の中には秦氏元(はたのうじもと)の子がいて、源頼親(みなもとのよりちか)※7の従者だという。事情を問うたところ、その殺人は頼親の仕業であり、人々が広くいっていることは、「頼親は、殺人の名人である。度々このようなことがあった。この頼親は、致信によって殺害された大和国の(当麻(たいまの))為頼(ためより)と云う者の一党である」
ここまでがその日の日記だ。道長の書きぶりはどうだろう。天下をあずかる摂政道長にしては、帝の留守中を狙ったふとどきな殺害事件に怒りもしていない。それどころか「殺人の名人源頼親」に感心しているようにさえ見える。
清原致信の大宰府での勤務記録はないだろうかと探っていくと、もしやと思われる記録があった。それは、な、なんと紫式部の夫※8と同時期なんだ!待たれよ次号!!
※1)清少納言…康保3年(966)生まれと仮定(吉川弘文館人物叢書『清少納言』岸上慎二による)。三十六歌仙の一人父清原元輔(もとすけ)59歳の娘。
※2)清原致信…弟という説も。長男為成・二男致信・三男戒秀(僧)。ほかに姉も一人。
※3)前大宰少監…大宰府の上級官制は帥・大弐・少弐・大監・少監・大典・少典の四等官。ほかに主神。少監は四等官の第三等だが、大宰府は九州九国と壱岐対馬を統治するから、それぞれの国司の9倍以上の力をもっているともいえる。事件のときはすでに少監の職をはなれ、後述のように藤原保昌の家来。
※4)頼宗…長男内大臣頼通の一歳下の弟で二男だが母親ちがいで出世も遅い。
※5)日記…御堂関白記。「 」内は倉本一宏全現代語訳。〈 〉内は法世補。
※6)藤原保昌…日向・肥後・大和などの国守を歴任。道長・頼通の家司として仕えた。和泉式部の夫。
※7)源頼親…生没年未詳。満仲の子。頼光・頼信は兄弟。大和源氏の祖。道長に忠勤。周防・淡路・伊勢・信濃の国守を歴任。特に大和守を三度つとめ勢力を築くが興福寺大衆と合戦、土佐に配流。
※8)紫式部の夫…藤原宣孝(のぶたか)だが結婚のまだ4年前。