清少納言の兄は清原致信で、肩書は前大宰少監(しょうげん)。大宰府勤務のあかしと思われるのは正暦4年(993)の「少監清原(名欠)※1」だ。清原致信がのちに殺害されたように、同時期の四等官にもさまざまな人生があった。
帥(そち)(長官)の敦道(あつみち)親王は冷泉天皇の第四皇子で数えの13歳。この年元服して大宰府のトップに就任。といっても遥任(ようにん)なので京に住んで収入は保証される。のちに亡兄為尊(ためたか)親王(享年26)の恋人だった和泉(いずみ)式部※2と熱い恋のさなか、27歳で亡くなる。
大弐(だいに)(次官)の藤原佐理(すけまさ)※3は50歳。佐理4歳のとき父が没し、祖父の摂政関白太政大臣藤原実頼(さねより)に育てられた。将来性一番で、書もすばらしかった。が、祖父が佐理27歳のとき他界。35歳参議に昇任して公卿(くぎょう)※4とはなったもののうしろ盾をなくした悲しさ、一条天皇の世になると天皇の外戚藤原道隆・道兼・道長兄弟らに追い抜かれ、道隆が摂政となると正暦2年大宰大弐として九州へ追いやられた。赴任中に宇佐八幡宮の神人(じにん)※5と乱闘して翌6年免職、帰京。2年後復権できたがその翌年55歳で没。
少弐(次官補)藤原宣孝は筑前守と兼任。姉妹は藤原佐理の妻なのでそのひきか。のちの妻紫式部は宣孝とまたいとこ。宣孝は紫式部の父為時とは六位の蔵人(くろうど)※6時代に同僚だった。為時は道長に恩※7がある。宣孝の人生もややこしかったろう。
少弐は宣孝のほかに藤原延明がいるが、「肥前国長嶋荘領関係資料集」に名があるけれど、ほかは探せない。
権少弐※8藤原孝友も、子の慶命(けいみょう)が第27世天台座主ということしかわからない。
大監(だいげん)は藤原(名欠)で不明。
権大監(ごんのだいげん)の平致光(たいらのむねみつ)。これは大変な人物だ。致光が9年前に滝口武者(たきぐちむしゃ)※9であったなら済子女王との密通があった人物ということになる。また、長徳の変※10に名のでる「右兵衛尉(うひょうえのじょう)致光」なら犯人側になる。
そして、少監清原致信。清少納言の兄であり、24年後の寛仁元年に京の小宅で20人余りの兵に殺害された。すでに宮中を辞して尼僧となっていた清少納言もその場に居合わせており、危うく刃にかかりそうになったという記録もある。
致信以下の官人は調べがつかないが、中央の政局に振り回される日々であったろう。
正暦4年は、大宰権帥として流された菅原道真が、没後90年にして太政大臣を追贈された年でもあった。こもごもの遠(とお)の朝廷(みかど)。
※1少監清原(名欠)…江見左織氏所蔵文書。以下の四等官も。
※2和泉式部…橘道貞の妻。為尊親王・敦道親王の寵を受け離婚。道長の娘中宮彰子に仕え藤原保昌と再婚。保昌は道長の家司。清原致信の主君。致信殺害はもともと保昌と源頼親(殺人の名人)の紛争から。保昌は祇園祭保昌山のモデル。かの『和泉式部日記』は、和泉式部自作説が有力。
※3藤原佐理…音読み(有職読み)でサリとも。書は小野道風・藤原行成とともに三蹟とよばれた。
※4公卿…公(太政大臣・左右大臣)と卿(大中納言・参議・三位以上)を合わせて公卿。俗にクゲ。
※5神人…じんにん。古代・中世で下級神職。
※6六位の蔵人…宮中清涼殿の殿上の間に昇殿できるのは五位以上の者(貴族)だけだったが、平安時代、天皇近侍の蔵人が定められ六位の蔵人も昇殿できるようになった。
※7道長に恩…為時は花山朝で六位の蔵人だったが一条朝となり失職した。10年後不遇を嘆く漢詩を奏上し、天皇・右大臣道長を動かして越前守に任命された。紫式部も同道したが翌年宣孝との結婚のため帰京。中宮彰子に仕えるのは宣孝の死後。
※8権少弐…権官は遥任あるいは左遷の場合がある。
※9滝口武者(たきぐちむしゃ)…宮中警護にあたった武士。
10長徳の変…長徳2年花山法皇が内大臣藤原伊周(これちか)の誤解から襲撃された事件。東三条院呪詛・大元帥法を私した罪も合せて、伊周は大宰権帥に、弟隆家は出雲権守に左遷。捜査の段階で右兵衛尉致光の名があがった。
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