結婚してすぐに長男、その三年後に長女を授かった。義父は喜び孫二人の肖像画を描いた。描き終えたころから、体調を崩した。
福岡市の浜の町病院で診察を受け、肺癌と診断された。もう43年も前の話であるから、イレッサなどの妙薬があるわけでもなし、肺がんは命を諦めざるをえない病だった。
義父はだんだんに痩せ消耗していった。当時、肺がんにも丸山ワクチンが効くと聞き、担当医に話すと、打ってもいいですが、仕入れるのはそちらでしてください、と言われた。東京の姉に頼み、日本医科大学付属病院の方へお願いに行ってもらった。首尾よく入手でき、辛い抗がん剤での治療ではなく、丸山ワクチン一本に絞った。小康状態が続き、治療できないまでも、穏やかな延命策だと理解していた。
ある日見舞うと、義父はベッドから出て、「ちょいと、行こう」と言う。私の前に立って、廊下の一番遠くの端の方へ誘った。そこには安人工皮革製のソファーがあり、スタンド灰皿が置いてあった。この時代はまだ病院に喫煙室はなく、病棟の隅の隅で吸っていいようになっていた。
「たばこ、もってる」「はー、でも…」「いや、医者もOKしてるんだ。もう酒もたばこもいいってさ」「ハイライト、でいいですか」「いいよ、何でもいいよ」
差しだし、火をつけると、うまそうに目を細めてふかし、それから目を閉じて味わった。
「うまい、うまいなー。本当にうまいなー。ところで、次郎くんはいつから吸い出した?」「はい、高校1年からですから、15歳だったでしょうか」「早いねぇ」「いえ、早いのは小5小6から吸ってましたから、私は遅い方だったですね。飲み屋街の子はみんな早いですよ。家でたばこを売ってましたから、いくらでも手に入りました」
「酒は?」と言って、またふかす。
「飲み屋ですから、ビールも一升瓶もあり余るほどありました。二級酒を子どもの頃から、隠れ飲みしていました」
「僕はねぇ…、美学校に行きたかったんだよ。できれば東京上野のね。でも親の反対で長崎高商(現・長崎大学)に行かされた。大映を定年してから再び絵筆を執ってるが、やはり間に合わないなぁ…」
もう一本勧めると、そばのベンダーから缶コーヒーを二本買い、一本を私に渡した。
「たばこはコーヒーと喫むのが一番おいしい」と嬉しそうにまた一本に火をつけた。こんどはふかしではなく、肺腑の奥まで吸い込んだ。煙はゆっくり鼻腔から出て天井に向かっていった。紫煙だった。三本目は固辞され、「おいしかった。ありがとう」と言って、病室へ戻った。
その二日後からせん妄状態となり、翌日の深夜、まるでたばこの煙のようにあっさりと天に昇った。行年76歳、男はサヨナラだけが人生だなぁ。
中洲次郎=文
text:Jiro Nakasu
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)
新刊『団塊ボーイの東京』(矢野寛治・弦書房)
◎「西日本新聞 TNC文化サークル」にて
①4月からの新講座「日本文学映画」研究 受講生募集
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※詳しくは ☎092・721・3200 まで
やましたやすよし=イラスト
Illustration:Yasuyoshi Yamashita