博多の街に慣れてきて、行きつけの店も増えてきた。
柳橋を博多駅方向に渡って、右折する。那珂川べりを南に歩いていくと、みどり屋電気があり、そこの角を左折すると、間口の小さな、それでいてちょいと洋風のオシャレな居酒屋があった。「人形」という飲み屋で、ママは同世代、西洋人形のようなコスチュームを身にまとい、エレガントな立ち居振る舞いで、無口な人だった。店の二階に居住しているとのことで、客がいなければ居室に籠(こも)っていた。賄(まかな)いは40すぎの男がテキパキと行っていた。ママは二階から下りてきても、悠然と店の中央の席に陣取り、あまり動くことはなかった。
長崎でのロケの帰りに一人立ち寄った。ママが自分の横の席を勧める。私の指輪が気になったらしい。長崎の「江崎べっ甲店」で贖(あがな)った濃い飴色の指輪だった。あまりの興味からか、私の指からはずし、自分の指につけ、「くれない」とせがむ。「いいよ、また長崎には行くから」と気前よくプレゼントした。しばらく飲んでいると、テレビ局の連中とアフロヘアーの長身の若者が入ってきた。ママが「なんでも歌手志望で、アンドレ・カンドレという人よ」とそっと教えてくれ、めずらしくそちらの席に立って行った。急に手持ち無沙汰になり、「人形」を辞した。
もう一軒飲んでから帰ろうと、中洲に足を向けた。途中、美野島を抜け、住吉神社の横、昔の花園町を歩いていると、化粧の濃い女装したゲイのおじさんから声を掛けられた。上手にお断りし、足を急がせた。東中洲の那珂川べりの飲食ビルの2階に「渡辺マリの店」というミニクラブがあった。店内は広く、ピアニストの男が曲を奏でていた。ママはもちろん渡辺マリさん、あの「東京ドドンパ娘」で大ヒットを飛ばした有名シンガーだった。応対はいつも明るく、歌の通りに、元気のよい人だった。声にパンチ力があり、江利チエミを彷彿とさせた。目元も似ていた気がする。
洒脱で遠慮がなく、話のしやすいママだった。「なんで、縁もゆかりもない博多にお店を開いたんですか?」と尋ねると、ちょいと遠くを見る目つきをして、「いい人を追いかけて来たのよ…アハハ」と、本当かどうか煙に巻かれた。私が25歳くらいの時だったから、彼女は31歳くらいだっただろうか。いつも午後11時半くらいになると、ミリオンセラー曲「東京ドドンパ娘」を気合いを入れて唄った。♪好きになったら はなれられない それは初めてのひと~~ドドンパ ドドンパ ドドンパがあたしの胸に 消すに消せない火をつけた(作詞宮川哲夫) 客たちは大いに乗り、ドドンパを踊る連中も多かった。この歌を生で聴けるだけでも、飲み代は安いものだった。それから1年くらいで彼女は東京へ戻っていった。
「人形」もしばらくして閉まった。一度、渡辺通りで偶然ママと通りすがった。「今は能面打ちをしてるのよ」が最後だった。
中洲次郎=文
text:Jiro Nakasu
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)
新刊『団塊ボーイの東京』(矢野寛治・弦書房)
◎「西日本新聞 TNC文化サークル」にて
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やましたやすよし=イラスト
Illustration:Yasuyoshi Yamashita