在ることの豊かさ
人々がモノやカネに奔走する現代、どうしても読み返してみたい本がある。いまから30年前に書かれた新書版で、現在67刷(ずり)を記録している暉峻淑子(てるおかとしこ)さんの『豊かさとは何か』(岩波新書)である。西ドイツに長く滞在した経験から、豊かさについてさまざまな視点から論考している。私はこの本の最後のページにいつも深い共感を覚えるのである。
「私は、西ドイツに滞在中、それまで思ってもみなかった『豊かさ』を教えられ、ハッとしたことがある。ある朝、森を通って仕事に出かけるとき、休暇をとった中年の男性が、森の中の籐椅子にねころんで、ただじっとしているのに出あった。夕方、帰りにその森を通ると、同じ人が同じようにじっとしている」。というのである。不思議に思って、「一日中そこで何をしているのですか」と問うと、「こうして何もしていないと、小鳥の声、風のそよぎ、落葉の音、陽の光、そういうものが、黙っていてもきこえ見えてくる。受身で、自分をカラにして受けとることもまた豊かだ。私はこうして時々自然と対話をし、交流して再び都市に戻る」。それを聞いた筆者は、何かをすることと同時に、何もしないことの価値がみとめられているのも、また豊かではないだろうかと考える。
私は、この箇所を読むたびに深い安堵感を覚え、豊かさの本質に思いを寄せる。生きる速度をゆるめたくなる一冊である。
『豊かさとは何か』
暉峻 淑子 著
岩波新書
840円(税別)
六百田麗子
昭和20年生まれ。
予備校で論文の講師をする傍ら本の情報誌「心のガーデニング」の編集人として活躍中。