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ハットをかざして 第167話 神田神保町界隈①

ハットをかざして 第167話 神田神保町界隈①


 徐々に神田、駿河台、神保町界隈に慣れてきた。通勤は吉祥寺から中央線快速に乗り、お茶の水駅で降りる。駿河台を下る、日本のカルチェラタンだ。左に日大、中央大、右に明治大学と学生街である。下ると右手は神保町、日本一の古本屋街である。和紙に刷られた古書の匂いが漂ってくる。この町を歩くだけで、少し知的になって来るような錯覚に陥る。

 会社の机でコピーを書く者はほとんどなく、先輩たちは社製の原稿用紙を小脇に抱えて、いずくかに消えていく。徐々に会社の空気にも慣れ、先輩たちの動き方を真似し、私も外でコピーを書くことにした。白板に出先を書く。先輩たちの出先はおおむね「資料集め」「本屋」「図書館」、もちろんお得先の名を書いている者もいるが、すごい人は「外」と大書している。連絡のつけようはない。

 まだ新人に近い私はさすがに「外」とは書きづらい。よって喫茶店の名前を書く。「ルノアール」「モーツアルト」「ミロンガ」「ラドリオ」その他である。

 「モーツアルト」、ここはお店の名前通りモ―ツアルトのレコードのみを掛けている喫茶店である。路地の奥にあり、客層も上品で皆瞑想してモーツアルトに聴き入っている。ある日、仕事のアイデアが浮かび、夢中で原稿用紙にペンを走らせていると、店主が静かにそばにやってきて、「ここで原稿を書くのはお止め下さい。ペンの音が皆様にご迷惑ですから」と注意を受けた。ほとんど音を立てずに書いていたのだが、よほど耳が良いのだろう。爾来、曲とコーヒーを愉しむ以外はお邪魔しなくなった。

 「ルノアール」、カタカナの厚ぼったい書体が好きだった。白地に墨文字はモダンなインテリジェンスを感じさせた。コーヒー代はハイブローな「滝沢」に比べれば安い方で、新人たちのサラリーでも十分に賄えた。先輩たちと行けば、必ず奢ってくれるので3年生くらいまでは自分で喫茶代を払ったことはない。

 「ミロンガ」、すずらん通りのはずれの路地の中にある。正式名称はミロンガ・ヌオーバである。ラテンのお店であり、店内にはアルゼンチンタンゴの曲が流れている。タンゴは心に弾力性を与え、発想を広げ、妙に筆が走る。ここで原稿を書くなと叱られたことはない。モカマタリと紫煙とラ・クンパルシータ、大人の店だった。コピーに窮すると必ずこのお店の奥の椅子で一人筆を走らせた。

 ミロンガを出てすぐそば斜め向かいに「ラドリオ」がある。ミロンガと似た佇まいで、入口の赤レンガがしゃれている。内装は木造でパリの茶店を思わせる。遠く静かにシャンソンが流れている。心がアンニュイに流されるので、コピーライティングには不向きだ。ウィンナーコーヒーが売りのお店で、秋になると、イブモンタンの枯葉が失くした恋のかさぶたを剥いだ。

 そうそう「李白」を忘れるとこだった。民芸木彫の素晴らしい内装の茶房だ。コーヒーを頂いていると、まるで自分が北大路魯山人になった気がしたものだ。ところで先輩たちはどこで書いていたのか、同じ店ではとんと遭遇しなかった。


中洲次郎=文
text:Jiro Nakasu
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)
新刊『団塊ボーイの東京』(矢野寛治・弦書房)

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やましたやすよし=イラスト
Illustration:Yasuyoshi Yamashita

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