
結局は何も見えないのか
長崎県佐世保市の高1同級生殺害事件。発生から2カ月余だが、動機や当時の精神状態など未解明の部分ばかりだ。
少女は精神鑑定のため11月まで医療機関に留置されている。しかし、鑑定によっても彼女の心象風景は結局、何も見えないままなのではないか。
神戸の酒鬼薔薇聖斗、西鉄高速バスジャック、大阪池田小…。しばしば引き合いに出される同種事件の犯人たちの行動は通常の犯罪者とは異なり、一般的な市民理性では理解不能である。
おそらく犯人たちの心の形が違っているのである。それは突然変異した新種の生き物のようであり、人工空間が創りだしたモンスターのようでもある。
現代人の精神構造は確実に脆もろくなっている。巨大なシステムの中で、さまざまな約束事に縛られ、しかも約束事を介してしか人と人との関係を結べない。その結果、感情を必要以上に抑え込んだり、その裏返しとして溜まった感情をある日、一気に暴発させる。
精神を病んだ人は、他者とシンクロナイズ出来なくなった人々のことである。それゆえ、彼らの心は崩壊しやすく、ささいな困難でもたちどころに心身のバランスを失ってしまう。
群れて暮らす野生動物はコミュニケーションを命にし、協調することで生きる力を高め合う。しかし、複雑な現代社会は我々から野生力を奪い取っている。
佐世保の加害少女はサイコパス(精神病質)との分析が専門家の間で増えつつある。極端な冷酷さ、感情の欠如、罪悪感のなさ…がその特徴とされる。
だが、サイコパスであったとしても、それがどうだというのか。一番の危機は我々が次なるモンスターの出現を防ぐ手立てを持ち合わせていないことに尽きる。
「心の闇」という。そもそも闇とは一体だれにとっての闇なのか。心の闇とはその言葉を使う側が闇と感じるものである。
分からないと感じるのもその言葉を使う側である。少女自身の心が闇かどうか、少女自身がそれを闇のように感じているのかどうかは、それこそ「分からない」のである。
闇とは畢竟ひっきょう、大人たちの敗北と絶望の代名詞なのかもしれない。私たちの社会は闇の向こうに何も見ることが出来ないまま再び空しく歳月を重ねていくしかないのか。報道量が激減し、早くも事件風化の兆しが見える今、そうした焦りが一段と募るのである。
(ジャーナリスト。元西日本新聞記者)
馬場周一郎=文(ジャーナリスト。元西日本新聞記者)
幸尾螢水=イラスト