妻抱かな
昭和42年、東京は武蔵野市にあるS大の政治経済学部に入った。この年、中村草田男先生は定年にて教授を退き、非常勤講師となった。
しばらくして、先生は文学部に講座を持った。日本古典文学の講義だった。
S大は吉祥寺北町にある。当時の吉祥寺はまだ田舎で、サンロードと云うしゃれた名前の通りもあったが、北口の駅前には市場があり、買い物籠をもった奥さんたちが多くたむろしていた。
私は関東バスには乗らず、大学までの道のりを早足で歩いた。
五日市街道に出れば、もう目前である。
街道を右に折れると、それは見事な欅並木が正門まで続いている。
欅は隆々と聳え立ち、天を支えているように見える。正門を入り、正面のレンガ造りの建物が本館で、左側に同じくレンガ造りの文学部の建物があった。
そこに先生は教えに来るというのだ。講義の日は文学部のみならず、政治経済学部から工学部まで、興味のある学生が鈴なりに入りこむ。別に咎められることもない。
無断聴講するに、やはり先生を勉強しておかなくては失礼にあたる。大学の図書館で先生の句集を精読する。当時まだ不勉強にて、
「降る雪や 明治は遠くなりにけり」くらいしか知らなかった。
この頃の先生は66歳、目元が優しくすずやかで、鼻梁は細く、端正なお顔立ちをしている。
物腰が柔らかく、講義も丁寧語で喋べる。そう、松竹の名俳優・日守新一を髣髴させた。先生は常に教育的で道徳的で、慈眼に満ちていた。
その日の講義は、先生の師である高浜虚子の句の話になった。
虚子の句を、黒板に大書していく。随分右肩上がりのくせのある字である。
彫刻刀で細く鋭く彫ったような字とでも云おうか。
遠山に 日の當りたる 枯野かな(虚子)
で、遠近の把握を教え、
炬燵より 低き老となられけり(同)
で眼前の発見を教え、
君と我 うそにほればや 秋の暮(同)
闇なれば 衣まとふ間の裸かな(同)
紅葉せる この大木の男振り(同)
で、詠み手の心理比喩を教える。
春風や 闘志いだきて丘に立つ(同)
蜂の子の 蜂になること 遅きかな(同)
で、青く若く稚い拙い学生たちに、希望と志を持つこと、あせらぬこと、あわてぬこと、ゆっくり成長していくことを、教授した。
我々学生は物足りず、先生ご自身の句を挙げ、発句の動機を乞うた。
妻抱かな 春晝(昼)の砂利踏みて帰る(草田男)
妻二タ夜あらず 二タ夜の天の川(同)
おふくろ捨てて 女房拾って 寒鴉(同)
炎天の 空へ吾妻の女體(体)恋ふ(同)
虹に謝す 妻よりほかに 女知らず(同)
皆、先生の奥様に対する情愛を聴きたかったのである。
固唾を呑んで答えを待ったが、
先生は笑って答えず、ただ窓の外の、校庭に落ちる枯葉を見つめていた。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)