ぼくは二十歳だった
ぼくはこの世に生まれた事をいつも憎んで生きて来た。生れ落ちた時から、エデンの東に居た。人間である事がつらかった。
死にたいと思いながら、自決する勇気もなく、緩やかな自殺として、織田作(之助)のように結核になり、障子一面に血を喀くことを夢想した。結核になるには、太宰治の如く酒を呑み、吉行淳之介の如く鳩の町を彷徨い、梶井基次郎の如く檸檬の冷たさを両の手で知ることと思っていた。
学校は面白くなく、一早くドロップ・アウトし、新宿や渋谷の湿気の多い穴倉で、弱い蛇のように生きていた。下宿では、火野葦平の「四百ノ牢屋ニ命ヲケズリ」を机の前に貼り、四百の牢屋に挑んでいた。真っ白の原稿用紙に真っ赤な血を喀く美しさを幻想した。吉本隆明の云う「共同幻想」、まず幻想を抱く事が大事。幻想は状況を作り出し、状況は活路を導き出す。
幻想と状況に囚われた者はアナーキーに生きるしかない。アナーキーとは世間の道徳や常識や習慣を唾棄し打破するところから始まる。手っ取り早いアナキズムは身を持ち崩すことである。大学で単位を取り、できればオール優で学部長推薦や学長推薦を頂き、一流会社に就職し、親の選んだ良家の娘を娶り、ネクタイで自らの首を締付けながら、妻子に30有余年間給料を運び続ける。定年し細々たる年金を頂き孫を抱く。二十歳で人生の全てはお見通しだった。
高校時代に自殺したMを羨み、ナホトカからソ連に消えたTをも羨んだ。何もする気がない、何をする度胸も覚悟もない。昼過ぎに起きて、三時に銭湯に行き一番風呂につかる。三時に来ているのは紋紋の入った連中ばかりである。やおら着替えて中央線で新宿に出る。キャットやDUGやレフティと云うJAZZの店に行き、小さなとぐろを巻く。JAZZと云っても、コルトレーンあたりを嗜好していたのは私たちより十歳上、60年安保世代の兄貴たちで、我々はもっとメロディの無い、心を沈潜化させる音を求めた。そう、ヤクの射ち過ぎで死んだソニー・クラークだ。唄なら、ベッシー・スミス。彼女の子供たちが、マヘリア・ジャクソンであり、ビリー・ホリディであり、ジャニス・ジョプリンである。
しかしその誰を聴いても死ぬ事はできなかった。かつて、ダミアの「暗い日曜日」を聴いて多くのフランスの若者が自殺したと云うが、フランスは幸せだったと云える。
ある日長髪の友が、新宿の蠍座に凄い女が出ているから行こうという。名は「淺川マキ」と云う。長い髪の黒ずくめの女で、トップライト一本の光の中に幽霊のように立っていた。
♪この次 春が来たなら むかえに来ると言った あのひとの嘘つき もう春なんか来やしない♪ (「ふしあわせと言う名の猫」 詩・寺山修司)
ポール・ニザンの「アデンアラビア」の冒頭の言葉が浮かんできた。
「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどと、だれにも言わせまい。」
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)