社長面接の日が来た。
丸井で月賦で買った鉄紺の背広上下に身を包む。今日で全てが終わるためである。吉祥寺駅から中央線の快速に乗る。専務面接の時は神田駅から錦町を辿ったが、今回は御茶ノ水駅で降り、駿河台を下った。明治大学があり、中央大学がある。二年前、ここは日本のカルチェ・ラタンだった。ノンポリの私はこの緩やかな坂を「フランシーヌの場合」を口ずさみながら下った。当時、新谷のり子の大ヒット曲だった。
午後2時の約束、30分早くロビーへ着く。人事課長が待っており、回りの席に数人の学生が待機していた。「今、順に面接をしています。中洲さんは多分2時半位になるでしょう」と告げる。青二才の学生に「さん」を付ける、マナーの良い会社だ。1時間もあるので、30分ほど散歩の許可を取り、再び往来へ出た。すずらん通りと云う瀟洒な商店街があった。
通りに面して、法律書の有斐閣、童話の冨山房、辞書の東京堂という出版社が軒を並べていた。
すずらん通りを端まで行き、ターンして2時10分にロビーへ戻った。直ぐに課長の案内で、最上階の社長室へ上がり、またドアの前でしばらく待機した。やがて前の学生が出て、私の番となった。課長はドアの前までで、中は人事部長に受け継がれた。
直径6mほどの木製の楕円テーブルの上席に社長はすでに座っていた。人事部長は私と社長のほぼ中間に立った。女性秘書が社長に資料を開いている。私の履歴書や成績、面接の採点資料であろう。
社長の風貌はフランキー堺である。綺麗に抓み上げた御髪を6:4に分け、ポマードで固めている。髪型で云えば、河野一郎を思わせた。社長は資料から顔を上げて、どうぞと着席を促した。部長が座ったのを見届けて、後に着席した。社長がまじまじと私を見つめ、また手元の写真を見つめる。
「写真では長髪ですが、髪は如何しましたか」
当時私は肩までの長い髪をしていた。
即座に答えようとすると、部長に手で制され、「社長は、髪の毛を何うされたかと、お尋ねです」と云う。面妖な気持ちで、「社長にお会い致しますので、昨日床屋へ行き、切って参りました」と答える。部長は今度は社長に向かい、「社長にお会いするとのことで、昨日切って参ったとのことです」と伝える。
社長は一言「切ることはなかった」とほほ笑む。また部長がこちらへ向かい「切ることはなかったと仰せです」と云う。
社長よりまた「口ひげは如何しましたか」と問われる。再び部長がおうむ返しに私に同じご下問をする。「社長にお会いすると云うことで、失礼があってはいけないと考え、昨夜剃りました」と答える。また部長がおうむ返しに社長に言上する。
再び「剃ることはなかった」と莞爾とほほ笑む。また部長が「剃ることはなかったと、仰せです」と伝える。
5、6mの距離はあってもすべて筒抜け、どうも直答が許されないらしい。ここは宮中かと思いながら、吹き出しそうな思いを喉元できつく抑え、恙なくご下問に答えていった。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)