いよいよ学生生活最後の春。
就職前にいちど両親に顔を見せるべく帰省することにした。当時はまだ新幹線は新大阪までで、乗り換えの不便さを考えると時間がかかっても特急富士で帰る方が楽だった。夕刻東京駅を発つ。蚕棚の三段ベッドの最上段である。梯子で上に上がる分面倒ではあるが、最上段は天井が高く圧迫感がない。しかも、値段も多少安いのだ。幕の内弁当と缶ビールと、週刊誌を買い、カーテンをしめて籠る。狭いが幼い頃から押入れの中が好きだった身にとっては妙に落ち着くのである。
明け方、下関、海底トンネルを抜けて小倉駅に着く。小倉までくればもう帰ってきたようなものである。日豊線に入り、行橋を過ぎ、吉富手前から右前方に八面山が見えてくる。胸が高鳴る、故郷のこころの山である。富士山より何より、幼い時からこの山を見て育った。見つめているだけでこころの綻びが繕われた山である。
父がプラットホームで出迎えてくれた。父は直ぐに私の荷物を持つ。もう22歳の息子の荷物を持ってくれる。父から見れば、私はいまだ小僧なのであろう。パスとヒドラはまだ服用しているが、ストレプトマイシンはとうに終わったことを伝えた。父は私が幼い頃、肺結核に罹患しており、自分の菌が寫ったのであろうと気にしていた。その日は、父方の墓参りと、母方の墓参りへ行った。ご先祖様にやっと世に出ることを感謝し、これから頑張る覚悟を胸中で伝えた。
故郷のアーケード街を歩いていると、前方から赤ちゃんを抱いた若いママが歩いてきた。間違いなく、小学校時代から好きだったT子だった。そうかもう人妻になっていたのか。わざと見ないようにし、すれ違った。「ジローちゃんじゃない」の声が背中でした。振り返り、まざまざと見つめ思い出せないフリをした。「T子よ」と云う。「T子…ああ、Tちゃんか」、下手な演技である。「帰っちょったん?」という。続けざまに「今、どうしちょん?」と畳み込む。「いやー、来月から社会人なんで、親に顔見せに帰ってきた」「どんな会社?」「いや、広告会社さ」「どんな仕事?」「新聞の広告を作ったり、ラジオやテレビのコマーシャルを作ったり」「シャレちょんね」「いや、化粧をしてるから、Tちゃんと分からんかった、ごめん」「Kちゃんと去年、所帯をもったんよ。一緒に苦労せんか、と言われて」と2年先輩の名を云った。「Kさんと…先輩はお元気ですか」「うーん、変わらずに遊び人よ」。赤ちゃんは女の子でKさん似の色の白い中高い顔をしていた。「美人になるね、名前は」「和歌子とつけたの」「いい名だね」といい、「Kさんによろしく」と云って別れた。しばらく歩いて振り返ると、T子も丁度振り向いたところだった。赤ちゃんの手をとり、バイバイをした。
さなぎの時代に惚れた娘が、美しい蝶々に変貌していた。もうこの町にしばらく帰ることはないだろうと思った。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)